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ゴーラープ・マーの生涯(9)

 1885年12月11日、師はシャーンプクルからコシポルへ移り、ゴーラープ・マーもホーリーマザーと一緒にそこへついていきました。
 1886年8月16日、ついにラーマクリシュナは他界しました。そしてその数日後、若い出家信者と在家信者たちの間で、師の遺品の扱いについて口論が起きました。ホーリーマザーはゴーラープ・マーに、ため息まじりに言いました。
「あのような素晴しい人がわたしたちの前からいなくなり、そして今、ゴーラープ、人々は彼の遺灰についてケンカしています!」

 1886年の8月が終わりに近づいたころ、バララームはホーリーマザーのために、聖地巡礼の旅の準備をしました。同行者はゴーラープ・マー、ラクシュミー、Mの妻、ヨギン(スワミ・ヨーガーナンダ)、ラトゥ(スワミ・アドブターナンダ)、カーリーでした。
 彼らはまずヴァラナシへ行き、そのあとヴリンダーバンに一年間滞在しました。彼らがヴリンダーバンにいる間に起きた、ある興味深い出来事について、ホーリーマザーはのちにこのように語っています。

「わたしたちのゴーラープの心は完全に純粋です。ヴリンダーバンのマーダヴァ(クリシュナ)寺院で、誰かの赤ちゃんが床を汚してしまいました。人々はそのことを気づいていましたが、誰も掃除しようとはしませんでした。そしてゴーラープ・マーがそれに気づいたとき、彼女は自分のきれいな服を引き裂いて、それで床を掃除したのです。どこかの婦人が言いました。
『彼女が掃除してるから、あれは彼女の赤ちゃんに違いないわ。』
 わたしは自分自身に言いました。
『彼らがなんと言っているかお聞きになってください、おお、マーダーヴァジ!』
 するとほかの誰かが言いました。
『違う。彼女たちは聖女だ。彼女たちは他者の利益のためにそうしているのだよ。』」

 聖地巡礼から戻ったあと、ホーリーマザーは、スワミ・ヨーガーナンダとゴーラープ・マーと共にカーマールプクルへ行きました。彼らはブルドワーンまでは電車で行きましたが、その後は歩いて行かなければいけませんでした。16マイル歩いたあと、ホーリーマザーは疲れ果てて空腹でした。ゴーラープ・マーは、ユーチャランの宿でどうにか少しの米とレンズ豆のキチュリを、ホーリーマザーとスワミ・ヨーガーナンダに作りました。ホーリーマザーは喜んで、「おお、ゴーラープ、あなたが用意してくれたものはなんという甘露でしょう!」と叫びました。
 ホーリーマザーと共にカーマールプクルへ数日間滞在した後、ゴーラープ・マーとスワミ・ヨーガーナンダはカルカッタへ戻りました。ホーリーマザーはカーマールプクルで、1887年から1888年の約一年間、貧困と孤独、人々からの批判という非常に困難な状況下で過ごしました。ゴーラープ・マーがついにそれに気づき、ある信者に彼女をカルカッタへ連れ戻すように頼みました。ホーリーマザーはバララームの家で数日を過ごし、その後、信者が彼女のために借りた、ベルルのニランバル・ムコーパディヤイのガーデンハウスに移りました。

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