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◎マハーバーラタのクリシュナ

◎マハーバーラタのクリシュナ

 はい、その青年期の時代があって、で、もうちょっと大人になってからのクリシュナは今度は『バガヴァッド・ギーター』に現われるんだね。これは『バガヴァッド・ギーター』を読んでもらってもいいし、あるいは『マハーバーラタ』ね。『マハーバーラタ』の中に現われて、その中で教えをアルジュナに説いてる場面が『バガヴァッド・ギーター』となるわけだけど、それはみなさん『マハーバーラタ』を読んでもらったらいいと思いますが、あそこでもクリシュナは自分の使命を果たすわけだね。

 あの中で出てくるビーマ、それからアルジュナ。あの辺もクリシュナの化身だったといわれている。つまりあの『マハーバーラタ』全体を進めてるものが、もうクリシュナなんだね。つまりあの『マハーバーラタ』っていうのは――まあ『マハーバーラタ』自体もすごく解釈が難しいんだけど、つまりあれは大戦争の話だから。でもクリシュナの告白っていうかな――がいってることによると、「あれは必要な戦いだった」と。つまり、地球のカルマをいったん軽くするために、ああいう大戦争を起こしてバーッてああいう苦しみにみんなを放り込む必要があった。あれでいったんクシャトリヤ、つまりその時代の武士達はほとんど全滅するんだけど。で、それをする必要があったんだと。

 で、あの『マハーバーラタ』を見ると、今言ったビーマなんかが――これは前、何かに書いたけど――ビーマってアルジュナのお兄さんなんだけど、ビーマも神の化身なんだけど、トラブルメーカーなんだね。何かっていうとビーマが出てきて余計なことをする(笑)。で、その悪者のドゥルヨーダナとかいろんな人をたきつけちゃって、結局トラブルが起きる。で、いろんな形でトラブルの元になってる。で、最終的に戦争に突入するわけだけど。

 つまり戦争に突入するときも、クリシュナが一応それを止めるような工作に入る。つまりお互いを説得するような感じになるんだけど、まああれ読むと分かるけど、本気で全然説得してない(笑)。つまり逆に、いかに戦争に向かわせるかっていう感じで、クリシュナ自体が動いてるんだね。

 で、その戦争に入って、そこで有名な『バガヴァッド・ギーター』の教えを説く。で、アルジュナに説くんだけど、でもアルジュナもクリシュナの化身だから、結局一人芝居っていうか(笑)。結局すべてクリシュナの一人芝居なんだね。つまり偉大な神の教え、『バガヴァッド・ギーター』っていう教えをアルジュナに説いて、それをサンジャヤっていう人が神通力で見てて、聴いてて、それを王様に教えて、それが後に書き記されるんだけどね。で、そのすべて計画していたのが全部クリシュナであったと。

 で、最終的にその戦争によって、計画通りにほとんどの武士たちを滅ぼして、地球の大掃除を行なって、最後は亡くなると。これがクリシュナの物語ですね。

 まあそのいろんな伝説、真実いろいろ入り混じってはいるんだろうけど、クリシュナの存在っていうのは、そのバクティ的な修行の一つの象徴としてね、ずっとインド人の胸にあるし、もちろん縁のあったわれわれにとってもクリシュナっていう存在っていうのは、バクティの一つの象徴としてね、非常に重要な存在ですね。

◎完全に真実に心を開く

 修行っていうのはだから、いろんな道があるわけだね。いろんな道があって、で、その道に応じたさまざまな象徴があるわけだけど、例えばヨーガの神、これはシヴァ神といわれる。ここでいうヨーガっていうのは一般的なわれわれがやってるような、瞑想であるとか、さまざまな行法であるとか、そういうヨーガね。つまり、行者の神はシヴァ神なんだね。だからわれわれがさまざまな修行に励むときの象徴っていうかな、心に思い浮かべるのはシヴァでいいわけだけど、そうじゃなくてバクティの世界にわれわれが足を踏み入れるときの一つの象徴的帰依の対象はね、クリシュナになるんだね。

 もちろん実際は同じなんだよ。クリシュナもシヴァもカーリーも仏陀も、みんな同じです。これはラーマクリシュナも言ってるように、一つの実在が劇に応じて仮面を付け替えているようなもんであって、みんな同じなんだね。ただ、バクティ的なものを進む人はこのクリシュナの教え、あるいはクリシュナの物語を胸に抱いて、クリシュナに心を向けながらバクティを進めていくわけですね。

 今日はある意味ちょっとこう曖昧な感じの話になるけども、いつも言うように、わたしはやっぱりバクティっていうのは非常に素晴らしいと思う。ある意味最高の教えです。しかしそれはなかなか表現が難しい。

 ちょっと誤解を恐れずにいうと、それは、完全に真実に心を開く作業なんだね。それはストレートに真実に心開くんです。

 ストレートっていうのは、もう理屈はいらない。だからバクティにおいては理屈も障害となる。

 だからちょっとバクティは叙情的な感じで表わされることが多いんだけど、ただ叙情的でもないんだね。叙情的でもないんだけど、理屈を超えて真実に到達しようとするから、ちょっと叙情的な感じになってしまう。その途中段階ではね。でも叙情でもないんですね。

 つまりもう一回言うけど、例えば恋人のような愛とか、親が子に対するような愛とか、あるいはしもべが自分の主人に対するような気持ちとか、そういう表現から入るから、すごく情的な感じがするんだけど、そこが目指してるものっていうのは、全然そういうものを超えた世界なんだね。

◎すべてがクリシュナ

 われわれが心の本質、自分の心の本性に到達したとき、そこにはクリシュナがいるんです。――というよりも、すべてがクリシュナなんだね。

 まあクリシュナっていう言葉じゃなくてもいいんだけど、今日はクリシュナの誕生日なのでクリシュナっていうけども。われわれが心の本性に到達したとき、そこにはクリシュナがいる。――というよりもクリシュナしかいない。――というよりも、今もクリシュナしかいない(笑)。

 これに早く気付かなきゃいけない。

 これがバクティなんだね。

 そのためにさまざまなやり方で、われわれの固い観念を切り崩し、あるいは固い執着を削ぎ落とし、放棄し、ひたすら愛――つまりわれわれが普通に持ってる愛着や愛情の愛じゃなくて、もう自分っていうのを一切入れないような純粋な愛を神に向けて高めていくことによって、その唯一の真実に到達する。

 で、この世界っていうのは、至福に満ちた世界です。至福に満ちた世界っていうのは、途中も至福に満ちている。で、もちろん最後も至福に満ちている。だからとても楽しい修行だね(笑)。

 とはいえ、途中も至福に満ちてるんだけど、でももちろん苦悩も多い。つまり、いろんなものを削ぎ落さないといけないから、そのときの苦悩っていうのはもちろんあるわけだけど、でも同時に至福もあるね。喜びと苦悩をたくさん経験しつつ進んでいくような道ですね、バクティはね。

◎バクティの重要性

 ただもちろんいつも言うように、現代においては、やっぱりいろんなことやんなきゃいけないと思う。いつも言ってるけどね。実際にいろんな行法も必要だし、あるいは教えを学んで論理的に考えることも必要だし、あるいはカルマ・ヨーガ的な自分の使命をこの現実世界においていろいろ遂行することも必要だし。ただ最も中心に置くのは何かっていったら、やっぱりわたしはバクティだと思うね。

 ただもちろん、それはそうじゃない道を歩む人がいてもいいわけだけど、わたしは個人的にはやっぱりバクティが最高だと思う。

 で、その縁っていうか、ここに来てる人ってやっぱりそういうバクティ的なカルマが強い人が多いのかなっていう感じがするね。それは一つの宝物なので――これは人によってはもちろん反論する人がいるかもしれないけど、一つの考え方として、「バクティは最高だ」と。で、さっき言ったように、あらゆるいろんな修行、苦行を乗り越えてやっと到達する世界がバクティ。あるいは『バガヴァッド・ギーター』もそういうふうにいわれるね。いろいろな徳を積んで、さまざまな苦行を乗り越えた人がやっと出合える経典が『バガヴァッド・ギーター』だと。まあ現代では『バガヴァッド・ギーター』はその辺に売ってるから(笑)、その辺はいろいろ条件は変わってくるけども。

 ただそのバクティね。バクティの素晴らしさに気付けるのは確かに、多くの徳を積み、多くの修行苦行を乗り越えた後じゃないと難しいのかなっていう感じは確かにするね。うん。

 でも、みなさんがやっぱりそういう縁があると思うのは、いつも言うけども、最初『バガヴァッド・ギーター』の解説を勉強会でやったときとかね、最初は躊躇があったんだね。「いや、この教えはちょっと理解できないだろう」と。「みんな勘違いしてしまうかもしれないし、全く心に響かないだろう」と恐る恐る勉強会をやったら、もうみんな目に涙をためて(笑)、「素晴らしいです!」と(笑)。「ああ、みんなバクティに縁があるんだな」と(笑)、「みんな素晴らしいな」と(笑)、思った覚えがあるけど。――まあだからそれはみなさんの宝物です。

 例えば『バガヴァッド・ギーター』を読んだり、こういったバクティの教えを――まさに今日の話なんかさ、わたし、曖昧なことしか言ってないじゃないですか(笑)、ある意味。これを例えば文章に起こして普通の人に読ませたら、「何か曖昧ですね」ってなるけど(笑)、でも少しでもみなさんが「ああ、そうだな」とか何か心に響くものがあったとしたら、それはまさにみなさんの宝物なんだね。つまりバクティに気づける一つの種子みたいなのがある。だからそれは素晴らしい。それはどんどん育てていったらいいね。

 さっき言ったように、修行というのはいろんな要素が必要なんだけど、それをうまーくすべてを育てていかなきゃいけなくて、ちょっと間違うとね、相殺してしまう危険性もあるんです。どういうことかっていうと、例えば論理に走りすぎる。論理は必要なんだけど、論理に走りすぎるとバクティの素晴らしさが分からなくなります。頭で考えちゃって、あの純粋な心の喜びが分からなくなる。

 そういうときは『バガヴァッド・ギーター』を読みかえすとか、あるいは至高者を胸に思い浮かべるとか、何かみなさんの心に響くものをやったらいいね。この神の歌を聴くのでもいい。

 この間聞いた話だと、TさんとRさんが、何かでちょっと精神的に良くない状態があって、「あ! あれ聴こう!」って言って、あの「メーレートゥ……」っていう歌を聴いて、「ああ! 何かよみがえった!」って(笑)、「これだ!」ってことがあったみたいだけど(笑)。――そういう感じで引き戻さなきゃいけない。

 つまり、よかれと思って教えをいっぱい学んでね、それはそれでもちろん素晴らしいんだけど、でも逆にその論理性に凝り固まってバクティが見えなくなることがある。だから一番芯に置かなきゃいけないものがあって、それはわれわれが純粋な心で神や仏陀を想ったときの理屈のない喜びとかがあるんだね。これはまず、決して忘れてはいけない。

 もしそれを忘れるような現象が起きるとしたら、それはもうすべて跳ね返す。

 あるいはそれは何かが間違ってると考えて――つまり自分の中からそれがもし消えてることに気づいたら、「あ! 何か変だぞ!」と。「何かわたしはちょっとどこかで間違っちゃったな」と。それを自分に引き戻さなきゃいけない。

 だからいろんなことが必要なんだけど、それだけバクティっていうのは重要だし、中心に置かなきゃいけないことですね。

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