釈迦牟尼如来(2)
シッダッタ王子は、非常に快適に育てられました。季節ごとの宮殿を持ち、美しい女性達に取り囲まれて、快楽と贅沢の限りを尽くした日々を送ったのでした。
そのような裕福で快適な日々の中にいながら、シッダッタ王子の心に、このような思いが起こりました。
「この世の人々は、自らが老いていくものなのに、老衰した他人を見て、嫌悪している。そして私もまた、老いから免れることはできないのだ。」
--このように観察したとき、シッダッタ王子の青年としての意気は全く消えうせてしまいました。
「この世の人々は、自らが病むものなのに、病んだ他人を見て、嫌悪している。そして私もまた、病から免れることはできないのだ。」
--このように観察したとき、シッダッタ王子の健康者としての意気は全く消えうせてしまいました。
「この世の人々は、自らが死んでいくものなのに、死んだ他人を見て、嫌悪している。そして私もまた、死から免れることはできないのだ。」
--このように観察したとき、シッダッタ王子の生存者としての意気は全く消えうせてしまいました。
またシッダッタ王子はこの頃からよく一人で瞑想し、欲望を離れ、不善の事柄を離れて、熟考と微細な思慮を行ない、遠離から生じた喜楽に満ちた、色界の第一禅定に入っていました。--これが実に悟りに至る道であろう、と考えて。
そしてシッダッタ王子は、このように思いました。
「在家の生活は狭苦しく塵にまみれているが、出家の暮らしは広々として自由である。
何故に私は、自らが生まれ、老い、病み、死に、憂い、汚れたものでありながら、生を求め、老いる事柄を求め、病む事柄を求め、死ぬ事柄を求め、憂うる事柄を求め、汚れた事柄を求めているのであろうか?
さあ、私は、生・老・病・死・憂い・汚れといったものの中にわずらいがあることを知り、不生にして無上なる安穏であるニッバーナを求めよう。」
つづく