yoga school kailas

聖者の心

【本文】
『ヴィータラーガヴィシャヤン ヴァー チッタム

あるいは、感覚対象へのすべての愛著を捨てた聖者の心を瞑想することも、心をいやおうなく不動にする。 』

 はい。これはまさにグルヨーガ、もしくはバクティ・ヨーガの世界です。
 ちょっとリアルなことを言うけども、これは――ちょっとリアルに言いますよ――生きている人の方がいいです。生きている人――つまりわれわれの知らない、例えばミラレーパとかパドマサンバヴァとかじゃなくて、あるいは見たことのないシヴァ神とかじゃなくて、生きている人。例えば、ダライ・ラマならダライ・ラマでもいい。あるいは自分が知っている聖者。自分よりも修行が進んで寂静の瞑想をある程度得ているなっていう人――この人に対して、この人の心に対して、集中するわけです。そうすると、その集中がうまく行けば、心と心が混じり合い、そっちに引っ張られるんです。自分は得てないんだけど、得ちゃうんだね(笑)。少なくともその集中が成功している間は。
 これが密教のグルヨーガ、ヨーガのバクティ・ヨーガの発想なんです。聖者に集中して、もらっちゃえと(笑)。もちろんそれは完全に自分のものではないんだけど、少なくともその経験をすることによって、深い瞑想に入って、より良い状態にステップアップしようとするんだね。
もちろん、生きている間って言ったけど、死んだとしても、亡くなったとしても、すごく縁があれば別だよ。例えば自分の師匠がいて、その聖者が死んで、死んだけどどっかの世界に生まれ変わりましたと。その弟子と師匠がものすごく縁があれば、死んでいようとどの世界にいようと繋がってるから、その師匠のことを思い浮かべるだけで、その境地に至れるっていうのはあるだろうけど。
 例えばここにいるみなさんが、前生ミラレーパの弟子だったとしたら、「ああ、ミラレーパ」と思っただけで、その境地に入るかもしれない。でもこれはみなさん、少なからずは経験してるんじゃない? 例えば、ある聖者のことを思い浮かべるだけで、なんとなく心が静まるとか。それはもう、あれなんですよ。弟子だったかどうかは別にして、縁があるんだね。
 私もいろんな人見てきたけど、やっぱり縁ってあるよね。例えば、ある聖者の話をしても全く「ああ?」とか言っている人が、違う聖者の話しをすると「ハッ!」ってなるっていうか(笑)。縁ってあるよね。
 これはそういうグルヨーガ的な話だね。一般にね、『ヨーガ・スートラ』ってラージャ・ヨーガの経典といわれているわけだけど、ラージャ・ヨーガって単純に心の中心に集中することによってサマーディに入って、悟りを得る、みたいに言われてるんだね。ちゃんとこの『ヨーガ・スートラ』を見ると、それだけじゃないっていうことがよく分かる。まず出てきたのが大乗仏教における瞑想法。それからハタ・ヨーガ的な呼吸法による瞑想法。それから、そこから生じるいろんな神秘的な感覚に対する――これはどっちかっていうと、かなり密教的なやり方だね――瞑想法。それから、チベット密教的な瞑想も出てくるし、それからグル・ヨーガ的なのも出てくる。非常に面白いね。いろんなやり方が提示してある。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする