菩薩の道(6)その3「智慧と慈悲の顕現」
菩薩の道(6)その3「智慧と慈悲の顕現」
止観といわれるサマタ・ヴィパッサナーの二つの瞑想プロセスのうち、サマタ(寂静の瞑想)は禅定に関係し、ヴィパッサナー(観察)は智慧に関係するということはすでに書いたとおりです。
そして、ヴィパッサナーを広義に捉えた場合、その初歩の段階のヴィパッサナーに関しても、すでに禅定の項目で書いたとおりです。
そしてより本格的な智慧の修行としてのヴィパッサナーについてもすでに少し書きましたが、もう一度少しまとめてみます。
観察とは、一体何を観察するのでしょうか?
まずその第一は、自分の心の汚れですね。もちろんこの段階まで来た人は、その前までの修行で心の汚れは減ってきているわけですが、まだ残っている、あるいは眠っている心の汚れ、悪しきカルマ、悪しき習性、こういったものを観察し、取り除いていくわけです。
前にも書きましたが、観察するだけで消えていく汚れもあります。分析によって消さなければいけないものもあります。あるいは集中によって消えるものもあります。
さて次のレベルの観察としては、心の汚れというよりも、心というものの仕組み自体を観察するというものがあります。つまりこの我々が「心」と呼んでいるものの仕組みを観察し理解するわけですね。
これにより智慧を得ると、心の罠というか、心の法則性によって生じる苦悩などが生じなくなりますし、仮に生じたとしても、すぐに消すこともできるようになります。
そしてより高度なヴィパッサナーは、心の本質そのものを見つめるというものであり、本来、これが本当のヴィパッサナーであるといってもいいかもしれません。心の本質、あるいは世界の本質。禅定によって落ち着いた心の湖の奥にある、普遍の真理を観察するのです。
これによって修行者は、無分別の智慧を得ます。つまり論理や認識を超えた、そして自己と他者という区別を超えた智慧を得るのです。
その途上の方法論においては、対象を認識し、論理を使うこともあるでしょう。しかし到達すると、論理や分別を超え、自己と他者、主体と客体の区別を超えた智慧を得るのです。
もちろん、この智慧に到達するには、論理を使うやり方しかないわけではありません。ラーマクリシュナのように信仰(バクティ)のみで智慧を得たり、あるいは精神集中、あるいはエネルギーの力で到達する方法もあります。
しかし現代では、これらすべてを総動員したほうがいいでしょうね。
つまり教えを学び、しっかりとそれを思索する。特に自分自身のことを観察分析して、教えを当てはめて思索する。
ブッダや神への強烈な信愛を強めていく。
戒律を守り、雑念を弱め、精神集中力を高めていく。
そして正しい行法によって、エネルギーの修行も進めていく。
これらを進めつつ、今までに書いたような布施・持戒・忍辱・精進・禅定といった修行を進めていく。このように、様々な真理の武器を総動員するしかないでしょうね、現代では。
さて、大乗の修行の第六段階としてこの至高の智慧の段階を見た場合、単純に空の智慧を悟るだけではなく、このときに、大慈悲心、そして様々な菩薩の法則、菩薩の智慧が「現前する」といわれます。よってこの段階は、「現前」とか「顕現」といわれるのです。
菩薩の土台がなく単に智慧を得た場合、その修行者はもうこの世に興味がなくなり、ただ自己の解脱の楽しみの中に埋没してしまうかもしれません。実際、お釈迦様の弟子の中にも、解脱してそのまま自殺した弟子もいました。
それはその修行者の解脱というものが他者には何の役にも立たない、味気ないものになってしまいますし、また、本当のことを言うと、本人にとっても、良いことではありません。まだまだ修行には先があるからです。
インドやチベットの大乗仏教や密教の修行においては、修行の初期段階から、菩薩の誓いや、回向や、慈悲の瞑想などを日々の修行に組み入れ、徹底的にその精神を根付かせます。それは味気ない個人のニルヴァーナに陥ってしまわないための準備といえるでしょう。
そのような慈悲の基礎、菩提心の基礎を培いつつ修行を進め、この至高の智慧の段階に来たとき、すべての実体のなさ、空、心やこの世の本質を悟る智慧とともに、いまだ苦しみ迷う衆生への大いなる慈悲心、そして菩薩としての様々な智慧が、目の前に顕現するのです。
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