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「解説『母なる神』」第五回(4)

 はい、ちょっと話を戻しますが――ただ、それをするしないは自由ですよと。神は何も強制しません。うん。だからそれは――でも何度も言うけども、もちろんした方がいいです。うん。これは本当にもう、なんていうかな、大チャンスです。これは『入菩提行論』とかには菩薩行っていう意味合いで、すごいチャンスだって何度も書かれてるよね。あるいはまあ『入菩提行論』だけじゃなくて、お釈迦様も――あるいは仏教経典でよくそういう表現が多い。つまり、これは――つまり皆さんがバクティとかあるいは菩薩行とか、あるいは今の言い方でいうと、この選択肢――つまりその「エゴを捨てて神に任せられるかなあ?」という、この選択肢の岐路に立てたこと自体がものすごいチャンスだと。つまり例えば盲人がね、目の見えない人が歩いてて転んじゃって、偶然転んだところにダイヤモンドがあった、くらいの超・超ラッキーチャンスだと。本当に超ラッキーチャンス。もう本当に数字では表わせないぐらいのラッキーチャンスだと。だから当然選んだ方がいいよね。うん。
 いつもそのチャンスがあるんだったら別にいいんですよ。いつもそのチャンスが、何度生まれ変わっても、あるいは何年経ってもずーっとそれがあるんだったら、どうしようかな、どうしようかなってずっと迷ってもいいのかもしれないけども、大いなる魂の流れでいったら、今皆さんに与えられているこの選択肢っていうのは、本当に一瞬かもしれない。うん。一瞬かもしれないっていうのは、本当に一瞬かもしれないよ、本当に一瞬かもしれないんです。明日なくなるかもしれないよ。いろんな意味でね。あるいはもしこれが十年ぐらいチャンスタイムが続いたとしても、でもたかだか十年ですよ。魂の大いなる流れからいったら本当に一瞬です。一瞬の、本当に見失ってしまうぐらいの、パッていうチャンスです。だからこれはつかまなきゃいけないんだね。
 だからそれは本当に、さっきも言ったけけども、もしそのチャンスを逃したとしたら――まあこれはつまりエゴ的な視点でいうならば――エゴ的な視点っていうか、自我意識の視点でいうならば、当然、これからの苦しい人生が待っています。人生っていうか、これからの魂の苦しい遍歴が待っている。ここでいう苦しいとか苦しくないと言っているのは、外的なことではもちろんないよ。皆さんがもし、心を解放したならば、あるいはエゴを放棄したならば、あるいは神と――まあ一〇〇パーセントとは言わなくても、神とのつながりが今よりもっと強くなったならば、当然皆さんの心は――今まで苦と思っていたものも苦じゃなくなってくるし、あるいはいろんなものに至福を感じるようになってくる。これはもちろん段階があるけどね。それはとても幸せなことですよね。それは――何度も言うけども、エゴを守って、それで得られる幸せなんて比較にならない。
 エゴを守って――これは原則的にいうけども、エゴを守ったら――いいですか、本当は苦しみしかないんです。エゴの方を取った場合、苦しみしかありません。でもわれわれって錯覚してるよね。「あれ? そんなことはないですよ」と。「エゴを通したらいろんな幸せがあるじゃないですか」って言うかもしれないけど、これは皆さん、本当に納得できるかどうか分かんないけども、それ全部錯覚なんです。これはもう小さな声で言うけども(笑)。

(一同笑)

 「(小声で)錯覚なんです。」

(一同笑)

 小さな声で言う必要もないんだけど(笑)、今はちょっと、なんていうかな、悪魔に聞かれないように――なんで悪魔に聞かれないように言ったかっていうと、わたしが堂々と言っちゃうと、悪魔は次の手を出してくる。「あ、みんな錯覚って聞いちゃったな」と。「みんなが錯覚だって思わないようにいろいろやっちゃえ」って感じで――例えば今日の帰りとかY君に悪魔がやってきてね、「やっぱりエゴはいいよな」みたいな経験をさせるかもしれない。だから今こっそり――悪魔がちょっと「あいつらエゴでいっぱいだな」ってこう安心してるときに、「(小声で)錯覚だよ!」と(笑)。「(小声で)気をつけろよ!」「悪魔にはおれたちはまだエゴでいっぱいなふりしとけ!」と。でも本当のこというと、錯覚だと(笑)。……こんな小さな声で言う必要ないか(笑)。

(一同笑)

 でも本当にそうなんです。錯覚であると。で、錯覚っていう意味は――もちろんね、その一瞬だけをとれば、喜びとかあるかもしれない。でもそれとその――なんていうかな、すべて相対的な話だから――対比する苦悩っていうのを見たら、もうとんでもない。もしわれわれが冷静になってね、エゴっていうものから解放されて、客観的にこのエゴという商品を見たら、当然手に取りませんよ。「こんなものいらない!」と。「こんなもの売るな」と。「こんなもの触れたくもない」――ってものなんだけども、何度も言うけども、われわれはもう慣れすぎちゃってるんだね。慣れすぎちゃってだまされすぎちゃってる。で、これをもう外そうとか、あるいは「エゴじゃなくて神」なんて発想すら起きないっていう状態がずーっと今までもあったし、ほっといたらこれからもあります。でもそれから逃れられるかもしれないなっていうチャンスタイムが、たまにポッと来る。すべての人に来るわけじゃない。いろんな、過去から、過去世からの徳であるとか、神への奉仕であるとか、修行であるとか、いろんなものの集約として、そのチャンスが与えられるんですね。
 それをものにしますかどうかっていうのは――本当に何度も言うけども、普通の選択肢とは違います。これをものにしないなんて考えられません――っていうぐらいの選択肢ですね。だからそれは――ここでは「それは自由ですよ」と書かれているけども、智慧ある者っていうかな、賢者から見たならば、自由だけども、自由だけども、それを手にしないなんてありえないと。
 まあ一般的な話でいうならば、例えば宝くじが当たりましたと。一億円当たりましたと。でもそれ、受け取るかどうか自由ですよ、と言われてね、普通受け取るよね(笑)。銀行行くの面倒くさいなんて(笑)。拒否しますか? 受け取りますか? と言われて、あーもう面倒くさいから拒否しますっていう人は、まあ無欲の人だったらそうするかもしれないけど、一般的な普通に欲望がある人だったら、当然、受け取らないって選択肢は普通はない。それくらいのものです。
 でも何度も言ってるけどエゴっていうか、悪魔の詐欺的作戦っていうか――は非常に巧妙なので、われわれのこの大いなる選択を取れないように、だまされてるんですね。
 だからいつも話は同じような話になっちゃうけども、もうだまされたと思って、だまされたと思ってすべて捨ててみるといいね。悪魔にだまされるよりはさ、お釈迦様にだまされる方がいいでしょ(笑)? あるいは悪魔にだまされるよりは、ラーマクリシュナや過去の聖者方にだまされた方がいいよね。聖者が言っていたこと――例えばこのオーロビンドにしろラーマクリシュナにしろ、みんな同じこと言っていると。「じゃあそれに懸けてみようかな。もしかするとだまされてるかもしれない。でもいいじゃないか」と。「それで一生棒に振ったっていいじゃないか」と。「そうじゃなくて、ずっと自分が守ってきたエゴでだらだらとエゴを守って、日々の小さなエゴの喜びにだまされつつ生きていくのか?」と。どっちに懸けるかって問題ですね。だからそういう、なんていうか思い切りみたいなのが必要になってくるんだね。はい。
 だからこれは常に自由なのだって書いてあるけども、まあ実際にはもちろん、ここで言いたいのは、当然それは選びなさいと。当然このチャンスを、つまり最終的変容っていうのはいつ来るか分からないから、チャンスをものにするために、自分の意志によって、あるいは自分の能動的なね、努力によって、神に明け渡す発願をし、そして実際にその努力をしなきゃいけない。

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