yoga school kailas

「最高の供養の受け取り手であるグル」

◎最高の供養の受け取り手であるグル

【本文】
『「口伝」の中に、
「このある意味を持った人(グル)に、私(仏陀)は、その人の体に住して、他の行をする人の供養を受ける。
 それによって、それを喜ばせ、心の連続体のカルマの障害を清浄にする。」
と説かれたように、正しい教えの意味を説くグルは、弟子が供養するときに、諸仏が降臨されて、グルの体に安住されて、供養を受けて弟子の心の連続体を清浄にする。
 グル以外の他へ供養したときは、自らが仏陀に捧げたという功徳は得るけれども、仏陀そのものが供養を受け取ったという確信はない。
 そのようなあり方を理解して、供養の受け手としてグル以上のものはないという確信持ち、グルをすべての如来方の本質と見て、グルの欠点を考える心を強く断じ、グルの諸々の功徳を観察して、グルへの帰依心を堅固にする。
 グルの欠点を観察するならばそれは成就の害となり、功徳の点から観察するならば成就は速やかに得られるからである。
 これらのあり方によって、グルに対する帰依心を強め、また、グルの恩を忘れず、大きな恭敬を常に持ち続けるようにする。』

 これはまず、仏陀っていうのは、例えば弟子がいてその師匠に何か供養するときに――まあもちろんその師匠が全く魔的な邪悪な師匠だったら別だけども、ちゃんと正しい道を歩んでいる師匠だった場合――弟子が師匠に供養を捧げるときに、仏陀がその師匠の中に入るんだと。

 で、つまりこれはね、ちょっとリアルにいうと、仮に師匠がいて、その師匠が自分はまだ解脱してないって思ってたとするよ。自分はまあ一応みんなよりも進んでるからみんなに教えを説いてるけど、自分はまだまだ全然高い境地に至っていないんだって考えていたとしてもですよ、リアルにいうとね、まあ例えばわたしがそういう師匠だとして、例えばMさんが「供養します」って供養したとするよ。「ああ、わたしはまだそんな状態じゃないんだけど、でもまあMさんの修行のために供養を受けましょう」って受けたとするよ。その瞬間、仏陀がバーッて入ってきて(笑)、仏陀が「おお、Mさん、受けましょう」っていうふうに(笑)、受けるんだっていうことなんだね、ここで書いてあるのはね。

 しかし、それ以外に供養したとき――つまり例えばMさんが、Mさんにとってはわたしが師匠だとしてね、で、師匠でない他の人が現われて、その人は偉いお坊さんかもしれない。聖者かもしれない。例えばチベットから誰かがやってきました。まあダライ・ラマならダライ・ラマでもいいし、なんとかリンポチェでもいいけど。なんとかリンポチェがやってきましたと。で、Mさんは、例えばMさんにとってはわたしが師匠なんだけど、でも信仰の心によって、「ああ、なんとかリンポチェ様、あなたも偉大な方ですね」と。「あなたも仏陀のような方です」と。「ですからあなたにも供養します」と供養したとしても、その人を仏陀と見て供養したっていう徳にはなるんだけど、実際にその中に仏陀が存在して、仏陀が供養を受け取ったってことにはならないんだよっていうことをいってるんだね。だからこれが、グルと、つまり師匠と弟子の結びつきのものすごい大切さを表わす。

 ここでいってる意味っていうのは分かるよね。つまり、じゃあわたしが仏陀で、このなんとかリンポチェは仏陀じゃないのか――そういう問題じゃないんだね。Mさんにとっては、わたしが仏陀だと。ね。つまりこの師弟関係がちゃんとできてる場合は、Mさんがわたしを仏陀だと思う限りは、Mさんが何か供養するときに、わたしの中で仏陀が受け取るんだっていう考え方なんだね。でもそうじゃない、師匠じゃない人にそれをやっても、そのシステムっていうのは働かない。よって、最もグル、師匠への供養が重要なんだっていうことですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする