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マノモハン・ミトラの生涯(16)

 シュリー・ラーマクリシュナがコシポルのガーデンハウスでご病気に倒れられていたとき、マノモハンは可能な限り師を訪問してご奉仕できるようにと、カルカッタに留まりました。師を支援するために、彼は財力に応じて、師にお布施をしました。

 あるとき、コンナガルの家に住んでいた妻に宛てた手紙の中で、マノモハンはこのように書きました。

「お金を浪費することのないように気をつけなさい。一ペニーも無駄に使ってはいけない。さもなければ、われわれは師に卒なくご奉仕をすることができない。われわれは今、師の生活を支えるために多くのお金が必要なのだ。師の若い弟子たちが全身全霊をかけて師にお仕えしている様子を見るのは喜びだ。そして、お金が足りないという理由でこの崇高なる彼らの使命が崩れ去ってしまわないように気を配ることが、今のわれわれの使命なのだ。」

 師がこの世を去られたあと、マノモハンは、ドッキネッショルや、師の出家した弟子たちが生活していたバラナゴル僧院をたびたび訪れました。
 ラームチャンドラ・ダッタはシュリー・ラーマクリシュナの伝記を記したいと思い、師を個人的に知っている人々から情報を収集するために、マノモハンをカーマールプクルにある師の生家に送りました。
 ラームと同様に、マノモハンは福音伝道者の精神を有しており、どこに行こうとも師の教えについて説きました。
 ときどき彼は、休暇をとって事務所を留守にし、さまざまな都市や村々を旅しました。多くの人々は、彼の燃え盛る信仰心と情熱的な献身に感化されました。やがてマノモハンは、ガタル、ジョソール、ダッカ、ナヴァディープ、そしてムルシダバードで施設を始めました。
 彼はまた、ラームによって出版されたベンガル語の雑誌であるタットヴァマンジャリーに、多くの感動的な記事を書きました。
 マノモハンの家族は宗教的な家族で、シュリー・ラーマクリシュナはその信仰の中心的対象でした。マノモハンは心の中に師を思いながら、家長としての勤めをすべて果たしました。
 最初、彼の妻であるアダルモーヒニーは、彼と師の近しい関係性を快く思いませんでしたが、最終的には彼女の態度が一変しました。
 礼拝しながら、彼女はシュリー・ラーマクリシュナにこう祈りました。

「師よ、わたしはあなたからアビシェーカを受ける機会がありませんでしたが、どうか、そのような理由でわたしをお見捨てにならないでください。わたしの夫が持っているような信仰と献身をわたしにお与えください。わたしが、夫の神聖なる使命の助けとなる本当の妻であれるように、力をお与えください。」

 ある日、マノモハンは妻のこのような祈りを耳にし、彼女が泣いているのを知りました。彼は非常に感動し、師の恩寵を感じました。
 そのとき彼は、神は彼を愛する者のために、すべてを善き状態にお整えになる、というシュリー・ラーマクリシュナの教えの真実を悟りました。
 アダルモーヒニーは夫であるマノモハンと共にプリに巡礼に行き、1900年3月23日、マノモハンが彼女の側で主の御名を唱えている間に亡くなりました。

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