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「ミラレーパの生涯」第三回(18)

【本文】

 この一件によりゲシェはいっそうミラレーパを恨むようになり、こう考えました。
「この無学なミラレーパという男は、ブッダの教えにそむいた風変わりな言行をし、虚言によって人々から多くの布施や供物を奪っている。それに対してわたしは正統な仏教の教えに通じており、一番の金持ちで勢力を持っているにかかわらず、ミラレーパはわたしの宗教的学識を認めず、わたしのことを犬よりも価値のない者のように見ている。これをやめさせるために、何か一計を案じなければならない。」
 そしてゲシェはなんと、ミラレーパの暗殺を計画したのです。

 はい。ちょっとここをもう一回見てみると――ここでね、このゲシェはなんとミラレーパの暗殺を計画するというところまでいっちゃうんだけど、ここでゲシェが考えてる考えっていうのは、決して、もちろん自分が悪人だとは思ってないよね。「おれは悪の帝王である」とは考えてないよね(笑)。「正義の使者ミラレーパを生かしておけん」なんて考えてないよね、もちろんね。自分が正義だと思ってるわけです。
 ここの言葉っていうのはね。つまり「ミラレーパこそが仏陀に、教えに背いた、無学な詐欺的な男である」と。「しかし、わたしは正当な仏教の教えを学んだし、権力もある」と。ね。「よって、このミラレーパがみんなを惑わすことがないように始末しなけきゃいけない。それこそがダルマである」って思い込んじゃってるんだね。
 実際ね、チベットの仏教もそうだし、もちろんヒンドゥー教もそうなんだけど、いろんな派がもちろんあるわけだけど、そのいろんな派に伝わるいろんな本を読むと、結構やっぱりこういうところが見受けられるんだね。見受けられるってどういうことかというと、例えばある聖者がいたとしても、なんていうかな、全部の派から称賛されたりはしないんだね。例えばミラレーパとかもそうなんだけど、ミラレーパも例えば一部の派からは、「いや、彼の空の理解は間違ってる」と批判されたりとかね。もちろんニンマ派とかもよく批判されるんだけど。まあつまり真理を追究しているチベット仏教っていう一つのカテゴリーの中でも、批判の嵐なわけだね(笑)。いろんな文献を読むとね。
 ヒンドゥー教なんかもそうですよね。それぞれの派で、もちろんほんとに悟った人は批判なんかしないけども、それぞれのそういった論書とかをつくった人たちは、まあいろんなかたちで他派を批判するわけだね。
 で、このゲシェの話なんかはいい例なんだけど、その批判してる自分はまさに正しいと。ね。わたしこそが、わたしの思いこそが真実なんだって思ってると。
 で、まさにね、この話って、とてもいい例なんです。何がいい例かっていうと、どう考えてもこれ、ゲシェが悪いでしょ?(笑)。だって最初から、つまりミラレーパが挨拶しなかったっていうくだらない理由でね、ミラレーパに論争をしかけて、そしたらミラレーパが素晴らしい教えを説いて、民衆もミラレーパ側に付いてね、ゲシェの学識ではなくミラレーパのそのちょっと風変わりな歌の方を支持したと。で、そこでまた頭に来ちゃって。
 もしこのゲシェが自己観察がしっかりできたならば、「あ、これはわたしの煩悩である」と、「エゴである」って理解できたと思うんだけど、じゃなくて、もう完全に、言ってみればエゴの悪魔にだまされちゃってるわけですね。エゴの悪魔の詐欺によって、「いや、今おれがやってるこれが正しいんだ」と。ね。
 これはね、修行者でもよく見受けられることです。つまりエゴによって人を批判すると。あるいは人に対して悪しき行為を行なうと。で、それをエゴによって、教えとかも利用しながら自己正当化するわけですね。「いや、これは批判して当たり前である」とね。「この人はほんとにこうこうこうで悪いんだから、批判して当たり前である」と。でも実はその背景には自分の心の怒りであるとか、相手に対する、まあいろんな悪しき感情があったりするわけだね。あるいは自分のプライドであるとかね。
 だからこれは常にその自分の心を見守らなきゃいけないし、またもう一方の方向性からいうならば――いつも言うようにね、サーラダーデーヴィーとかも言っているように、まあ概して人を批判してはいけない。どんな理由があってもね。「人を批判しても全く意味がない」と。「人を批判しても自分がけがれるだけである」と。なんの意味もないと。ね、
 あるいは『入菩提行論』とか『心の訓練』とかでもいわれてるようにね、もちろん人を称賛する言葉、これは素晴らしい。しかし、決して批判の言葉を口にしてはいけないし、あるいは心に思い浮かべてもいけないと。
 で、この批判に限らず、自分が「あ、こうなんだ!」「あ、こうしてやろう!」とかいう心が思いが浮かんできたときに、ちゃんと自分の心をチェックしなきゃいけない。そのポイントは――いいですか、ここも重要ですよ――「これ、悪魔の詐欺じゃないか?」――ね(笑)。「ちょっと待って! これ、マーラの詐欺じゃない?」っていうような思いを、パッとしっかりわき起こさせなきゃいけない。
 でもね、このマーラっていうのは、われわれに詐欺を働くマーラっていうのは、われわれの心と半分一体化しています。もう権力者として、まあつまり大臣みたいなもんだね。われわれの心の王っていうのは――普段われわれが心をコントロ-ルするこの心の働きが王様です。で、この王様には大臣がいっぱい付いています。で、この王様ってバカな王様なんで、すぐに大臣の言うことを聞いちゃうんだね。で、ちゃんと自分をチェックしないと、大臣の半分ぐらいが悪魔になっちゃってます。ね(笑)。だから、「え! この流れ、悪魔の罠じゃね?」って思いたいんだけど、その半分ぐらいの大臣が、「やべー! 気付きそうだ」と思ったら、王様を「あ、いやいや、王様、王様!」って呼んで(笑)、

(一同笑)

 「はい、美しい女性が来ましたよ!」って感じで分からなくさせるんだね。
 「あ、ちょっと、これ悪魔かな?」「ちょっと待って」――なんか心のいろんなプロセスがあって、ちょっと分かんなくなっちゃう。あるいは自分でなんか気付きたくないって思いもあるかもしんない。半分ぐらい魔にやられてるとね。
 だからそれは厳しく自分を見つめて、「さあ、魔にやられてないかな?」「これは今、自己を正当化して、ね、これは教えどおりだと、これは別に悪いことじゃないって思ってやろうとしてるけど、ほんとか?」と。ね。
 もうこれはね、ほんとに、強くっていうか、厳しく見つめなきゃ駄目ですよ。ほんとにこのゲシェのように思い込んじゃってる場合があるから。「ほんと、これは教えどおりだ!」って超思い込んでて(笑)、でも相当、実際は魔にやられてて、っていう場合があるので、これはだから皆さんも気を付けなきゃいけない。
 だからこれはもうほんとにいつも言うように、念正智っていうことになるわけですけどね。普段から心をチェックする訓練をし続けなきゃいけない。それはもう一生し続けなきゃいけないね。一生し続けてやっと、なんていうかな、皆さんの人生は価値があったといえる。
 はい。で、まあこのゲシェはそのような魔にやられ、なんとミラレーパの殺害を計画してるわけですね。
 はい。じゃあ、次に行きましょう。

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