ぬいぐるみ
私は神のぬいぐるみだった
ぬいぐるみなのに、「私」という自我意識と
「おれがやっているのだ」というプライドを持ってしまっていた。
ということは、私は神か?
そうであって、そうではない。
私は神であり、神の召使でもあり、
私というものはどこにもないともいえる。
私はないが、個性はある。
これはただの、カルマの流れ。
川の流れの模様。
一瞬の水面のきらめき。
区別できない虹のグラデーション。
カルマからなる習性の反応を
「私」と考えてはいけない。
それはただの習性の反応。
たとえば人は、自分の手の指を指して、
「私」とか「私の親指」と言うだろう。
しかしもしこの指が機能を失い、ただ勝手に痙攣するだけになったなら、
それは、「私についている邪魔な突起物」になってしまう。
われわれが自分勝手な痙攣をやめ、神の意思に没入した時
我々は神そのものとなる。
「私」をできるだけなくして
神のぬいぐるみとして、生きなさい。
なすべきことをなしなさい。
誰かが私をほめている?
どこにもほめられている人などいない。
人々は彼らの善行として、称賛の実践をしているだけだ。
誰かが私をけなしている?
どこにもけなされている人などいない。
人々は悪しきカルマにより、鏡に向かってブツブツ言っているだけだ。
もしこれに成功したなら
行為の中に非行為を見、
非行為の中に行為を見、
何があっても、至福の中で生きることができるだろう。
ただ実際は、まずはそのためには
たゆまぬ、相対的実践が必要だ。
教学、功徳、慈悲、持戒、懺悔、さまざまな修行
これらを積み上げない限り
このような理想は達成されない
よって日々、基本的な教えで自己を固めつつ
つまり真理の法をよりどころとすることによって
よりどころとなる正しい自己を作り
清らかで透明なる心を作り、
――つまりぬいぐるみを透明にして、
中の神が丸見えになるようにしてしまいましょう(笑)。