yoga school kailas

「ミラレーパの生涯」第二回(2)

【本文】

 こうしてミラレーパは再びマルパのもとを去り、ゴクパのもとをたずねて、ダクメーマが捏造したマルパの手紙を見せ、ゴクパに教えを請いました。ゴクパはその手紙を信じてミラレーパに秘密の瞑想法を授け、ミラレーパは瞑想修行に入るのですが、マルパの祝福がなかったために、その瞑想は全く効果を生みませんでした。

 はい。ここもとても大事なところなんだけどね。これはだから、まあよくいわれるように、結局修行において大事なこと、最も大事なことは、やはり祝福なんだね。まあこの祝福っていう言葉はサンスクリット語ではアディシュターナっていうんですが。アディシュターナね。日本ではね、よく密教とかでいう加持っていう言葉ですね。あれがアディシュターナです。よく「加持する」とかいうよね。特に真言密教とかで加持って言葉を使うと思いますが、あれをもうちょっと分かりやすい日本語に訳すと祝福、アディシュターナといいます。この祝福の力っていうのがとても重要なんだね。
 で、この祝福の力っていうのは当然、まあ一般的には例えば師がいる場合、師から弟子に対して注がれるわけだね。もちろんそうじゃない場合もある。そうじゃない場合っていうのは、目に見えない神的な存在から祝福が降りる場合もあるし、あるいはそうですね、縁のある――まあさっき言ったみたいに、ここにはいないんだけど、ヒマーラヤとかあるいは別の世界にいる聖なる存在から祝福が来る場合もあると。
 結局ね――またわたしはいつも話をするたびにすべて極端になっちゃうんだけど――結局、すべては祝福です(笑)。すべては祝福ですっていうのは、結局大事なのは祝福なんだね。これは、なんていうかな、わたし自身もそうだけども、例えばカイラスとかもそうだけど、まあ皆さんも分かると思うけど、このヨーガスクール・カイラスっていうのは……なんかそういうのネットでちょっと前に流行ったけど――ヨーガスクール・カイラスの九十九パーセントは祝福でできています(笑)。

(一同笑)

 そういうの流行ったよね、なんか(笑)。何パーセントは何でできていますとか流行ったけど、九十九パーセントは祝福でできています。ね。
 それはまあ、つまり――カイラスの最初のころっていうのは、いつも言うように、七畳半ぐらいの三角形の部屋があってね(笑)、なんていうかな、「えっ? ここ教室?」みたいな(笑)。

(一同笑)

 しかも三角形だから(笑)、まあほんとに狭くてね。あの、わたしその三角形の端の頂点のところにいつもいたんだけど(笑)。

(一同笑)

 狭い部屋にいて、で、ほんとに生徒も五、六人っていうときが、そうですね、一年とかあったんだね。で、そのころね、わたしはまあアルバイトもしてたわけだけど、ちょっと変な話ね、これはなんていうか、みんなの見本にはならないかもしれないけど、見本となるかどうかは別にして、このヨーガスクール・カイラスっていうのをまあ作ったときにね、何のヴィジョンもなかった。はっきり言って(笑)。

(一同笑)

 もちろんヨーガを通じてね、みんなを救いたいとか、みんなにちょっとでもね、ほんとのヨーガを広めたいっていう気持ちはあったけども、それはほんとにこう、具体性のない、わき上がるものであって、実際どうするかっていうヴィジョンはほとんどなかった。ね。
 で、細かいことを言えばきりがないんだけどね。でもまあなんとかそういうのができて、でも例えば五人ぐらい、近所のおばさんとかが来るぐらいの教室の状態が一年以上続いてね。で、そのときにね、知り合いとかがね、「こんなんじゃ駄目だぞ、おまえ」と(笑)。

(一同笑)

 もっとこういう宣伝をしたりとかね、もっと計画的にやったりとかしないと駄目だと、いろいろと声かけてくれる人もいたんだけど、わたしはなんか変な信念があったんだね。「いや、いける!」と(笑)。

(一同笑)

 いけるっていうか、なんていうかな、しっかり修行をして、まあ神にね、心を合わせてれば――もちろん何かヴィジョンがあったわけじゃないんで、もしかすると例えばこのカイラスっていうものが、人がほんとに集まらなくてつぶれるかもしれない。それはそれでよしと。あるいは、なんらかのかたちで発展するかもしんない。それはそれでよしと。まあそういう感覚だったんだね。ただ自分としては、衆生への慈悲とそれから神の道具となりたいという意志とを育てつつ、ひたすら修行をすると。
 で、いろんなかたちでだんだん生徒が増えたり、あるいはこの道場とかもそうだけどね、道場ができたりするわけだけど、それもすべてなんら人為的計画っていうのは、まあはっきり言うと九十九パーセントない。まあ一パーセントぐらいはあるかもしれないね。例えば、「じゃあこのあたりにこういうのを作ろう」とかね、思惑は一パーセントぐらいはあったかもしれないけど、やっぱりそれは、なんていうか、あんまり考えたことっていうのは実際にはかたちにならなくて、実際には「え? なんでこんなことになっちゃうんだ? まずいんじゃない? ええっ?」ってやっているうちに、ポンッと次の状態になるとかね(笑)。こういう感じで進んできている感じがあるんだね。
 で、そういうのを見てると、ああ、本当に祝福しかないんだなと。
 これはカイラスを抜きにしても、わたしの人生っていうか、わたしの個人的な修行を振り返ってもそうなんだけどね。やっぱりほとんど祝福によって導かれてるとしか思えないというか。もちろん何度も言うように、自分側のね、こっち側の真剣なその姿勢とか、あるいは誠実さとかって必要ですよ。だからわたしはいつも皆さんに誠実さが大事ですよと、誠実さの重要性を皆さんに口を酸っぱくして言うわけだけども。神に対する誠実さ、あるいは、ね、師や仏陀やあるいは聖なる真理に対する誠実さ、これを持ち続けて真剣に生きると。真剣に修行すると。そうすると、まあ形ある師匠がね、祝福を与えてくれるか、あるいは形のないかたちで見えない祝福がやってくるかは別にして、必ずこの祝福っていうのがやってきます。で、その祝福の力によって、修行っていうのは進むし、あるいは菩薩行っていうのは進んでいくんだね。
 ここでは瞑想の話なんで、個人的な修行とか瞑想に関して言うけども、これはなんていうかな、これもちょっと話としては伝えづらい話だけど、例えばね、皆さんもやってるいろんな修行があるよね。例えばムドラーもそうだし、瞑想法もそうだし、あるいはまあ教学もそうだし、気功とか、アーサナもプラーナーヤーマもそうだけどね。で、それっていうのはもちろんすべてある意味システマティックに、つまり理由があって行なわれてるものですよね。例えば呼吸法によってプラーナの働きを整えるとか、あるいは呼吸を制御することによって心やあるいは生命活動をしっかり制御するとか、いろいろ理由があるよね。瞑想にも理由がある。こういうイメージをすることによって、こういう部分の要素を引っ張り出すんだとかね。そういうのってあるよね。しかしそれらは確かに真実、事実なんだが、実際にはね、二次的なもんなんです。結局祝福なんです。つまりこうでこうでこうやったから進んでるんじゃないんです。祝福があったかどうかだけが実は鍵なんだね。
 でもそう言ってしまうと「えっ? 修行っていうのは、人生っていうのは、それだけなんですか? 祝福があるかないかだけなんですか?」――実はそうなんだが、ね、そうなんだが、われわれの意識が本当に高まり、ね、エネルギーも高まり、心が本当に純粋になって――まあそうだな、百パーセントとは言わなくても、五、六割でも神や仏陀に意識が合わせられてるときは、この話っていうか、このポイントがほんとにつかめるんです。そのときは、誤解を恐れずに言うと、修行も必要ない。それだけで修行が進みます。しかし実際はなかなかそれは持続されない。すぐにわれわれの意識やエネルギーは低い世界に落ちるんです。で、ここでいう低い世界っていうのは、概念の世界です。概念の世界に落ちるがために、われわれは概念やあるいはこの世のつじつま合わせ的な法則性の中に閉じ込められるんです。そうなるとわれわれは、法則や理由やつじつまが必要な世界でないと動けない人になるんだね。よって理由が提示されるんです。はい、ムドラーやれば気が上がりますよね(笑)。ね。そういう理由ね、例えばね(笑)。はい、呼吸法やれば――だってあなたね、一分間十六回呼吸してたのが十回になったから、ほら、そっか、呼吸と精神性は相関関係があるからね、その分、つまり十六分の十ね、呼吸が安定することによって、精神が安定したでしょうと。ね。あるいはこのようにエネルギーを回すことによってクンダリニーが覚醒してね――クンダリニーってあなた知ってますか? と。クンダリニーってあるんですよと。ね。そのクンダリーニーというものがね、背筋をのぼって、頭頂のね、ブラフマランドラの鍵を開けることによって、甘露が落ちるんですよと。ね。――それは正しいんだが、もう一回言うけども、本質ではないんです、実は。
 われわれの知ってる、このね、自然科学であるとか、目に見える世界からいったら、クンダリニーとかチャクラとかの世界っていうのはより本質に近い世界ですよ。本質に近いんだが、まだ途中段階です。ほんとのほんとのこと言うと、祝福があるかだけなんです。われわれの修行が進むかどうかっていうのはね。
 しかし、もう一回言うけども、それだけではわれわれはなかなか進めない。ね。例えば調子悪いときに、「あなた祝福が来てないですよ」と。ね。「神に意識を合せないと」って言ったって、なかなかそうなれないよね。「いや、そうは言ってもちょっと……」っていう感じになってしまう。そういうときはもうムドラーとかやったり、あるいはエネルギーを回したりとかね、あるいは教学したりとか、そういった、かたちあるっていうかな、つじつま合わせ的なところから逆に入っていくしかないんだね。でもほんとのこと言うと、何度も言うけども、祝福しかないんです。

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