◎供養の真意
◎供養の真意
【本文】
『また他には、食を制御する人、プラーナをプラーナにささげて供養したりする人がいるが、
これらはみな、供養の真意を知っている人たちであり、悪業の報いを、こうした供養によって消し去っているのだ。』
はい。食を制御する。これは分かるね。プラーナをプラーナに捧げるっていうのは、よく分からないね。これはあまり突っ込まなくてもいいと思います。ここの件に関してはね。
で、ここで大事なのは、「これらはみな、供養の真意を知っている人たちであり、悪業の報いを、こうした供養によって消し去っているのだ」。これは逆説的に考えた方がいいね。これらが実は供養――つまり神への供養の別形態なんだ、と理解して修行しなきゃいけない。つまりさっきも言ったように、あらゆる修行の根本に、絶対的な神への供養っていう発想がある。で、その発想の別形態として、世のさまざまな修行があるんですよ――と言っているに等しい。だから単純に、いろんな修行者がいてみんな正しいんだよって言ってるんじゃなくて、あらゆる修行をするときに、それが形を変えた供養なんだよっていうことを忘れるな――と言っているととった方がいいね。ここはね。それによって、いろんな形で悪業の報いを浄化してるんだよと。
だから逆に言うと、単純に合理的に修行をとらえすぎると失敗する。心は神のことなんて考えてないと。単なる肉体行として呼吸法をやるだけだったら、もちろんそれによる恩恵っていうのはあるけども、限られてくる。その恩恵っていうのはね。あるいは他の修行もそうだけど。すべては供養だという発想のもとにやった方が、このクリシュナが説いてるバクティ・ヨーガの恩恵っていうのは受けられますよ、ということだね。
◎供物の残り物の甘露
【本文】
『彼らは供物の残り物の甘露を味わい、永遠の存在たるブラフマのもとに到達する。
だが何の供養もせぬ人たちは、現世で決して幸福になれぬし、死後はなおさらのこと。おお、クル王朝の中でも最も優れた人よ! 』
はい。これもこのままですね。つまり、正しく修行する人々は――それはすべて供物なわけだけども、その残り物としての甘露――つまり至福の境地を味わい、永遠の存在たるブラフマ、つまり完全な解脱の境地に至りますよと。しかしこの世でただカルマに基づいて、好き勝手に生き、供養としての行為――修行をせぬ人は、この世でも幸福になれないし、死後はなおさらのことだ、というところだね。
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