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見解、瞑想、行為、果報の歌

見解、瞑想、行為、果報の歌

サラハ

 気高きマンジュシュリーに礼拝いたします!

 個々の変化は、その人自身の心の本性。
 輪廻とニルヴァーナのすべてのフォームの間には、違いはない。
 ブッダ方と衆生の間には、違いがない。
 例えばそれは、水と波のようなものである。

 心の本性は、存在と非存在を捨てている。
 それはヨーギーによって、道によって一瞬にして悟られる。
 それはちょうど、小さなランプによって暗闇が一瞬にして征服されるようなものである。
 循環する存在の苦しみという異常性は、自然にクリアになる。

 マハームドラー、思考を超えた合一は、
 空間のような、輝く非概念。
 広大に広がる大いなる慈悲。
 水に映る月のような、実体のない現われ。

 中心も境界もなく、それは輝く。
 シミ一つなく完全で、何も身につけず、希望と恐怖を超えている。
 無智な者の夢のように、言葉は理解されない。
 叡智、はかり知れない大いなる至福の本性は、
 すべての執着を超えて、太陽と月の光のようである。

 ああ、非常に素晴らしい自己生起のヨーガ
 生来の、不自然でない心は、ダルマカーヤ。
 ヨーガの成就は、不自然な心を通しては起こらない。
 したがって、至福の方向に何が存在するのかを見なさい。

 自然に成就したヨーギーの様々な思考は、至福である。
 散漫な思考から解放されたならば、嫌悪と欲望が生起するのは不可能である。
 これらは、シッダ・サラハの言葉である。

 ああ、ヨーガの見解の修行のために、
 この肉体という山は、至高の住処である。
 心の本性においてヨーガを修行するために
 感覚の束縛と限界を断ち切って進む至福は生起する。

 散乱を捨てる必要もない。
 心で遭遇するとき、それらはイダムである。
 意識は止まることなく、思考は断絶され続ける。
 心に散漫な思考が生起するならば、
 ヨーギーは、綿やウールのような、不自然でない安らぎの中に安らぐ。

 活動をあきらめ、心によって心を見なさい。
 嫌悪や愛著が起きたならば、それらは悪魔であると知りなさい。
 すべての散漫な思考の根源は、心である。
 それが存在しないので、散漫な思考も存在しない。

 正智して、あるいは正智せずに瞑想しているヨーギーは、
 この心を調べることなく、それをそれ自身に溶け込ませなさい。
 瞑想への願望なく、あなたはブッダの境地という果を達成するだろう。
 ヨーガとは、思考のない小さな子供のようである。

 庭で何かを味わうハエのように、
 森から森へと歩き回るライオンのように、
 いたるところに吹く風のように、
 心の本性が振る舞う方法は、至高なり。
 
 制御されることなく、自然な、狂人のように行為しなさい。
 様々なあらわれの心の精髄
 それは、マハームドラーであるとは少しも感じられない。
 あらわれを認識せずに、仏陀の境地は生起する。

 それに心を集中することは、崇高なる成就である。
 すべての内的なものと外的なものの同時発生のあらわれは
 非概念の流れる川のヨーガのようである。
 さらにまた、心以外には何も探し求めるものはない。

 心において何もしないことは、マハームドラーの道。
 結果に対する希望がないと悟ることは、マハームドラー。
 非概念が悟られるとき、それは空(そら)の雲のよう。
 もし悟られるならば、それはまさに空(くう)の本性。

 見解、瞑想、行為、そして果報は、同時に生起する。
 この非二元が悟られるとき、仏陀の境地の至高の果報がある。
 これが、見解、瞑想、行為、果報の歌の完成である。

 偉大なるインドの賢者マイトリーパ師とチベットの賢者マルパ・チューキ・ロドゥ翻訳者が、これを翻訳した。

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