カル・リンポチェ(2)
◎父と母――運命的出会い
カル・リンポチェの父はレクシェ・ダヤンと呼ばれていて、ラタク・トゥルク(つまりラタクのトゥルク【化身】)という称号があった。彼はラタク一族から連なるトゥルクの血統の第十三代目の化身であり、それゆえにカルマパ一世と繋がりがあった。
カル・リンポチェの父は、この系統の最後の代表者でもあった。レクシェ・ダヤンは亡くなる直前に「トゥルク探しは無用だ」と弟子に話していた。
おそらく彼は、一切の衆生を利するために働き続けるが、もはやそれはラタクの一族だけに留まらず、 他の場所に活動を及ぼすということなのだろう。彼の弟子や後援者たちは、彼は内輪に現われるのだと主張した。しかしレクシェ・ダヤンは、彼自身よりもはるかに優れた息子を残しているので、見放されたと感じてはいけないと、彼らに告げた。
レクシェ・ダヤンは、中国との国境近くのミンヤク地方にて、偉大な魂の特徴を明示して生まれ、自らをラタク・トゥルクであると宣言した。
シトゥ・リンポチェが管理するペルプン寺に属するツァドラ・リンチェンドラ (ジャムゴン・ロドゥ・タイェにより設立)の隠遁所にて、この若きラタク・トゥルクは三年間の瞑想修行を成し遂げた。そしてその後、数年間そこに留まった。
彼は瞑想の最中に、イダムの勧告を受ける経験をした。
「あなたは女性と結婚しなければなりません。なぜならば、あなたがた夫婦の間に、素晴らしい活動を成し遂げる子供が誕生するからです。そしてあなたが結婚する女性は、ドルマ・カルモ(ホワイトターラー)と同じ名前を持つ智慧のダーキニーです。」
この隠遁修行と時を同じくして、シトゥ・リンポチェは、ラタク・トゥルクの数年にもわたる隠遁修行の実践をことのほか高く評価するとともに、ホワイトターラーをイダムとして見なすよう彼に助言して、彼が見神したホワイトターラーの像を与えた。シトゥ・リンポチェは、この行為がラタク・トゥルクに経験と悟りをもたらすだろうと考えたのだ。
シトゥ・リンポチェが彼にこの像を授けた同日、若い女性がツァドラ・リンチェンドラに到着した。そして彼女はラタク・トゥルクに、その土地で探した最高の凝乳の瓶を捧げた。
「あなたのお名前は?」
ラタク・トゥルクはその若い女性に尋ねた。
「ドゥルカルと申します」と、彼女は答えた。
将来カル・リンポチェの父親となる彼は、奇妙な偶然の一致に気付いた。イダムが彼に告げたあと、シトゥ・リンポチェからホワイトターラーの像を賜り、そして全く同じ日に、まるで羊飼いの娘スジャータが仏陀釈迦牟尼に乳がゆを捧げたのと同じように、女神の名前を持つ若い女性が凝乳を捧げにやってきていたということに。しかし、その若い女性は運命づけられた人ではないかもしれないという疑いが彼によぎった。彼は彼女に、彼女自身のことや家族について多くの質問をした。こうして彼は、彼女の返答と身体的特徴の観察により、彼女がダーキニーに当てはまっているとすぐに確信した。
それでもなお、いくらかの疑問は残った。この結婚は有益なのか? 非常に優れた息子が誕生するというのは本当なのか? それゆえ彼は、この地域で最も偉大なラマであるシトゥ・リンポチェやゾクチェン・リンポチェらに助言を求めた。すると彼らは、これらの偶然の一致やサインがでたらめではないことを承認した。こうして彼はこの若い女性と結婚し、彼女とともに故郷の村へ帰り、ラタク・トゥルクの住居に引っ越した。
ドゥルカル(ラタク・トゥルクの妻)は、ジャムグン・ロドゥ・タイェと血縁関係にあり、また彼女の両親はジャムグン・ロドゥ・タイェの後継者でもあった。シトゥ・リンポチェは、彼女がホワイトターラー女神と同じ名前を持つのみならず、ターラーの放射そのものであったと、のちによく語っていた。
間もなくして彼女は懐妊した。レクシェ・ダヤンは、イダムによって告げられていた息子が生まれくるのだと思った。しかし生まれた子は女の子だったので、彼は落胆した。二度目の妊娠は、またすぐに訪れた。レクシェ・ダヤンは今度こそはと確信していた。イダムの予言は実現するということに一切の疑念はなかった。しかし、生まれた子はまたしても女の子だった。
レクシェ・ダヤンは、自身には女神によって告げられたことを成就するだけの器量がないのだと思い、深い悲しみに沈んでしまった。彼は、ラマたちの中でも中心的な存在であるペルプン僧院のケンツェー・リンポチェを根本グルと見なしていた。彼は、所有している家、家畜、家財、そして自分自身のためのお金も一切所有することなく、ケンツェー・リンポチェへすべて捧げると決めた。
彼の弟子や後援者たちは、彼を称賛し、かつ心配もした。彼らは、すべての所有物をグルに捧げることは素晴らしいことではあるが、彼や彼の家族のために、せめて雨風をしのぐ屋根は必要だと指摘したのである。
「わたしは誰の役にも立てていない。」
彼は答えた。
「わたしがここにいても役立たずです。ならば、私はここを去った方がよいでしょう。私は妻と二人の娘を連れて、インドの国境付近まで行き、乞食で生計を立てることにします。」
こうして彼は去った。しかしその二、三日後、師にそのような生活を送らせまいとする彼の弟子や後援者たちの使者が彼の元に到着すると、話し合いは激しいものとなった。レクシェ・ダヤンは、断固として帰ることを拒否した。しかし彼の弟子たちは、せめて彼と出会ったこの場所に留まり、これ以上進まないようにと懇願した。彼らは、彼が用いるための家をそこに建設し、彼の生活に必要なものは何でも施すつもりだったのである。長時間におよぶ議論の末、レクシェ・ダヤンは、一、二年の期間だけと限定して譲歩し、受け入れた。後援者たちは、レクシェ・ダヤンが一、二年の間暮らすための小さな家を建てた。現在もなお、この家は現存している。