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クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(7)

(2)自由と縁についての教え

 本節での主題は次の四つからなる。
 自由の本質についての考察、
 ダルマを修行するための縁についての考察、
 自由と縁を得ることの難しさを想像することによる考察、
 数的な比較による考察である。

1.自由の本質についての考察

 一般に、ここで述べる「自由」とは、ダルマを修行する機会を持つことを意味し、機会のない八つの状態に生まれないことを意味する。「自由がない」とは、ダルマを修行する機会のない八つの状態を意味する。

 地獄、低級霊、動物、長寿の神々、外道に生まれること、
 誤った見解を持つこと、
 ブッダのいない世界に生まれること、
 感覚器官や精神に障害を持つ者に生まれること、
 これらが、自由のない八つの状態である。

(1)激しい熱さや寒さなどに常に苦しめられているため、地獄に生まれた者はダルマを修行する機会がない。
 
(2)飢えや渇きに苦しめられているため、低級霊はダルマを修行する機会がない。

(3)他の動物からの攻撃に隷従し苦しんでいるため、動物はダルマを修行する機会がない。

(4)精神的に虚無の状態でいるため、長寿の神々はダルマを修行する機会がない。

(5)仏陀の教えが広がっていない辺境の地に生まれた者は、ダルマを修行する機会がない。

(6)誤った信念に大きく影響されているため、外道や外道と似たような誤った見解を持つ人々の中に生まれると、ダルマを修行する機会がない。

(7)三宝という名前を聞くことさえなく、善いことと悪しきことの区別がつかないため、仏陀の教えがない時代に生まれた者は、ダルマを修行する機会がない。

(8)能力が不完全であるため、感覚器官や精神に障害を持つ人はダルマを修行する機会がない。

 三悪趣に住む者たちは、常に熱さ、寒さ、飢え、渇きなどに苦しんでいる。これらの苦しみは過去のおこないに原因があり、ダルマを修行する機会を得ることができない。
 「外道」とは、ロカタのような32の辺境の国などに住む者たちのことであり、彼らは他者を害するおこないを信仰していたり、残忍に命を奪うことを善いことのように考えている。このような者たちは、人の形をしているが正しい心を持たず、ダルマにふさわしくない。ダルマの修行とは全く正反対の生き方をしている。なすことすべては悪しきことであり、優れていることといえば虫を殺すことや野生の動物を狩ることといった有害な技術のみである。彼らのうちの多くは、死ぬとすぐに三悪趣に生まれ変わる。このような者たちはダルマを修行する機会がない。
 長寿の神々は、精神が空白の状態になったままである。悟りの状態やすべての精神的な活動が、良くも悪くも単なる空白の状態であると信じ、そのような瞑想をした者たちが、このような神々に生まれ変わる。何カルパもの間、そのような状態に精神統一したままである。そしてこのような状態を生み出した過去のおこないの結果がいったん尽きてしまえば、誤った見解が原因となって三悪趣に転落してしまう。彼らもまたダルマを修行する機会を持つことができない。
 「誤った見解」とは一般的に、常見や虚無主義といった、仏陀の教えに反する考え方のことである。このような見解は心をだめにしてしまい、真のダルマを求める心の妨げとなり、結果的にダルマを修行する機会を持てなくしてしまう。チベットでは、第二の仏陀であるウッディヤーナのパドマサンバヴァが、国土を12の守護女神にゆだね、外道の侵入を防いだ。しかし、真実のダルマや本物の師の教えとは逆の、外道と同じような考えを持つことによって、真実の教えに従って修行する機会を奪われてしまう。スナクシャトラという僧は、勝者である仏陀のお付きとして十二年過ごしたが、信仰心が全くなく、誤った考え方をしていたため、ついには低級霊としてお花畑に生まれ変わった。
 仏陀の教えがない時代に生を受けたならば、三宝という言葉を聞くことさえない。ダルマがないため、ダルマを修行する機会もない。
 感覚器官が不自由な人は、教えを聞く、説明する、考える、修行するという過程が妨げられてしまうため、ダルマを修行する機会を失うことになる。この種の分類には、教えを理解することができない精神的な障害を持つ者も含まれる。彼はその障害ゆえにダルマを修行する機会を奪われてしまう。

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