カダム派史(5)「ウにおけるアティーシャ」
5.ウにおけるアティーシャ
サムイェー寺に到着したアティーシャは、そこでナクツォと共に、「ヴィンシャーティ・アーローカ」、およびヴァスヴァンドゥの「摂大乗論釈」など、多くの経典をチベット語に翻訳した。
アティーシャは、サムイェー寺にすでに多くのインド由来の経典があるのを見て、またインドにないチベット独特の経典も多くあるのを見て、こう言った。
「その昔、チベットでこのように仏法が盛大に広まったのは、インドでも起こりがたいことであった。これらのチベット独特のテキストは、パドマサンバヴァ師が、人間ならざるものの世界から持ってこられたのであろうか。」
その後、アティーシャはニェタンに行き、アビサマヤーランカーラなどを説いた後、ラサへと向かった。
ラサに到着したアティーシャを、ローケーシュヴァラが、一人の人間の姿となって歓迎した。
ラサにおいて殊勝な寺院と尊像を見たとき、アティーシャは、
「これらがいかにして建立されたかの書紀が定められてあることだろう」
と考えた。するとそのとき、ミョンマというダーキニーが現れて、そのような書紀が寺院の梁の中から出てくるだろうと予言した。そしてその予言通りに書紀が現れたが、ダーキニーがそれを一日以上閲覧することを許さなかったので、アティーシャの弟子たちがそれを書き写し、原本は梁の中に戻した。
アティーシャはラサにおいても多くの説法や著述をなした。そして信者たちから供養された財物を、インドにおける師やサンガに、三回にわたって送り届けさせた。
あるときアティーシャは、まるで子供のように振る舞いつつ、寺院内のそれぞれの部屋に、少しずつ糞便を垂れ流した。そのような奇行を見ても、ドムトンはアティーシャに対して全く不信を生じさせることなく、それぞれの部屋に行ってそれらをよく拭き清めた。これによってドムトンは、ハゲタカが18日間かけて飛べるだけの範囲の空間における、他心通を獲得した。
その後アティーシャはイェルパに行った。このときにドムトンは、父方の親族に多くの黄金をもらい受けに行き、それをアティーシャに布施した。これは後に、「イェルパにおけるドムトンの大贈呈」と呼ばれた。
次にアティーシャは、カワ・シャーキャ・ベンチュクに招かれて、ペンユルのランパにおいて、多くの法を説いた。
ある日、アティーシャが法を説いていると、突然、法座から転げ落ちた。アティーシャはカワに、
「ここに人間ならざるものがいる。あなたはそれを私に警告しなかった。」
と言い、またその「人間ならざるもの」に向かって、
「さて、おまえだな」
と言って、ハヤグリーヴァの成就法をおこなって、それを調伏した。
以上のように、ニェタン、ラサ、イェルパ、ランパ等は、アティーシャが大いに法を説いた場所であった。
その後アティーシャは再びニェタンに戻ってきたが、体が衰弱していたので、ナクツォの勧めによって、チンプーで6ヶ月間保養し、それから再びニェタンに戻った。
以前、アティーシャはネパールにいるときに、ナクツォに、
「ナーローパの弟子で、カシミール人のジュニャーナーカラという者がいる。彼から、グヒャサマージャのパクコルを聴聞したいと考えている。」
と言った。ナクツォは、ここでなぜそのようなことを言うのか奇異に感じながらも、ネパールの宿主に、もしジュニャーナーカラというパンディタがネパールにいらっしゃった場合には、私に手紙をよこすようにと言っておいた。その宿主から、ジュニャーナーカラがネパールにやってきたという手紙が、ナクツォに来たのだった。
しかしそのときアティーシャは病床にあり、ナクツォはその看病をしていた。アティーシャが自らジュニャーナーカラに会いに行くことは無理だったので、彼はナクツォに言った。
「私は行くことができないが、彼のような素晴らしき聖者とは会いがたいので、おまえが会いに行け。私ももう永くはないので、次はトゥシタ天で会おう。」
ナクツォは、
「私が死んだならば、トゥシタ天において、御身の御足のもとに生まれるという約束をしてください。また、私は後に故郷においてあなたの絵を描きますので、その完成の時には、トゥシタ天からおいでになってください。」
と懇願し、アティーシャはそれを承諾した。こうしてナクツォはネパールへと旅立った。
後に、カダム派のある人々は、アティーシャの命令とはいえ、死の病床にあったアティーシャを置いてネパールに行ったナクツォのことを非難した。これについてシャルワパは、
「今日のチベットの種々なる幸福は、アティーシャをインドから連れてこられたナクツォ翻訳官のおかげである。それなのに彼らは、悪口のみを囁く。」
と言って、ナクツォを非難する人々を叱責している。