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解説「ダンマパダ」第一回(2)

◎永遠の真理

【本文】

 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。
 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みがやむ。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを似てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。

 はい。これももう、読んだ通りですね。これはもう、このまましっかり読んで、日々の教訓にしたらいいですね。
 まあこれは、かれはわれを罵った、害した、われにうち勝った、われから強奪したって書いてあります。まあ、この他にもいろいろ当てはまると思いますが、つまり、あいつは俺を昨日、こんなに罵った、とかね。ああ、こんなにも私のメリットを奪ったとか、いろいろあると思うけども、ちょっとストレートな言い方してしまうと、「そんなものは忘れてしまえ」と。
 昔、私、小学生とか中学生のときに、武道が好きで、空手とか好きで、あの、皆さんちょっと世代が違うから知ってるかわかんないけど、極真空手の大山倍達っていう人がいて(笑)、知ってる?

(U)名前は聞いたことあります。あの、牛と闘ったっていう(笑)。

 そうそうそう(笑)。牛と闘ったりした、世界を闘って歩いた人なんだけど、まあ、あの人は実際武道家としては凄い人だと思うんだけど、あの人の本とかを昔よく読んでいて、まあ学ぶところもいろいろとあったわけだけど、すごく私が今でも印象に残っているいい言葉があって、それは、

「人から受けた、裏切りとか苦しみとか、何か悪いことをされたとか、それは、全部忘れてしまえ。
 人から受けた恩とか幸福っていうのは、決して忘れるな」

――という発想があるんだね。これも大変仏教的な発想で、まあ、これはここに書いてあることの発展ともいえるけども、決してもちろん、我々は人からの恩というものを忘れちゃいけない。いろんなかたちでそれは、相手に真の幸福を将来的に与えようと思わなきゃならない。しかし人から受けた苦悩なんてのは忘れろと、ね。――っていう発想があるんだね。これは実際に我々が実現しなきゃならないことですね。
 私はね、昔からちょっと楽天的だったから、もともと、人からされた嫌なことはすぐに忘れる方だったんです。それでもあるとき私は、自分の無駄な心の働きに気が付いた。例えば昨日友達にすごいひどいことをされて、うわーって思うわけですよ。で、次の日に友達に会ったときに、実は忘れているんですよ、そういう感情をね。で、普段通り「やあ」って言って、ワハハってやってるんだけど、なんかねえ、「あ、そういえばこいつにこんなことやられたな」と、「これを忘れるのはしゃくである」と(笑)。「こいつにもっと怨みをぶつけなきゃならない」みたいな、変な、余計な感情が(笑)、浮いてくるのをこう、発見したことがあって。そのときはまだ修行とかしてなかったから、それがまあ、いいんだみたいな感じで、
「そういえばお前、昨日こんなことしやがって!」
とか言ったりとか、あるいはそれさえも言わないで、ちょっとしばらく無視しようとか、そういう、本当は心はそんなに思ってないんだけど、そういうふに考えなきゃいけないような、何かそういう発想があったね。
 ただ、私はもともと楽天的だったから、本音をいうと忘れていたんだけど、ちょっとこう、表面的な悪いデータによって、そういうふうに考えちゃったんだけど、そうじゃなくて本当に心から、なかなかそういう、自分が苦しめられたとか、あの人にこうやられたとかいうことを忘れられないっていう場合も多いと思うね。
 それはもう、忘れなさいと。うん。
 なぜかっていうと、ここにも書かれているように、怨みによって怨みはやまないと。分かると思うけど、例えば誰かがある人に害をなして、それをやられた方がまた害をなして、――まあ私、いつも言うけど、ニュース番組とか見てると、悲しくなることがある。例えば殺人事件とかがあって、その親とかが、犯人を極刑にしてくださいとか言うわけですよ。あるいはもう、私がこの手で殺してあげたいとか。そういう発言がちょっとこう、美しく編集されて語られていたりするわけだけど、それをやってたら終わんないわけだね。それでもしその人が、もしだよ、仇だとかいって相手を殺したとしたら、その犯人の親が今度は恨むかもしれない。だからそれは人間の戦争とかの歴史とかもそうだけど、結局怨みによって、相手に対して仕返しをした場合、当然終わらないわけだね。それぞれに言い分があるだろうし、それぞれにその、何%かの理はあるだろうし。だからそうじゃなくって、完全に、その怨みという感情っていうかな、怨みっていう世界そのものから、どっちかが出なきゃいけない。

◎縁ある人々を救済する方法

 これは前にもそういう話をしたけども、人をね、我々が縁ある人々を救済する一つの手段はこれなんです。救済方法の一つ。
 これはどういうことかというと、例えば私がYさんに憎しみを持ったとしましょう。そのカルマによって、Yさんも私に憎しみを発してきたと。で、また私も憎しみを持ってやり返すと。これは、なんでこれが生じるかっていうと、私とYさんの間に、憎しみの縁があるからです。縁っていう意味の本当の意味はそういうことなんです。カルマを交換し合う相手、っていうことです。つまり、私とYさんには憎しみの縁がある。で、私の中には、憎しみもあれば慈愛もあれば執着もあればいろいろあったとしますよ。でも私は、例えばこの人とこの人には憎しみのカルマが発動しないと。Yさんとだけ発動するという場合があります。その場合、これは憎しみの縁があるっていいます。つまり私とYさんが憎しみの縁で結びついているんです。
 これは、その縁しかない場合、――まあ、その縁しかない場合ってあまりないけども、その縁がメインだった場合、私はYさんから何かやられると、怒ってしまうんです。なんでかっていうと、それしかないから、縁が。他の人から言われても別に怒んないのに、Yさんに言われると怒ってしまうと。どうしても。
 で、これを断ち切るには、相当な努力がいるんです。なぜかというと、Yさんを愛するとか、Yさんを許すとかいうカルマがこっちにない場合、それは努力して作らなきゃならないんだ。本当は、自然にすればこの人を怒ってしまうのが自分のカルマなんだけど、まあ頑張って、愛のカルマもちょっとはあるはずだから、ちょっとだけあるそのデータを拡大させて、思いっきり、くそー……Yさん幸せになってくれ……とかね(笑)。そうやってやるわけです。
 そうすると、だんだんやってるとねえ、やっぱり、すべては修習だから、心は乗ってくるんだね。そうすると、Yさん側にも変化が起きます。だって、このカルマのループっていうのは憎しみによって結びついているはずなのに、全く予期しない慈愛が返ってきたと(笑)。そうなるとYさんとしては、カルマの法則からいって、Yさんも私に、もしくは私以外の他の人に、慈愛を返さなきゃいけなくなるんだね。それによって強引に相手を、慈愛のループの中に巻き込むんです。これは一つの救済方法です(笑)。
 だから本当は、その人とはほとんど憎しみの関係しかないんだけども、自分が頑張って、変えていかなきゃいけない。
 あるいは例えば家族とかって、近いがゆえに、ちょっと悪いことを言っちゃうとかいう場合がよくあるよね。あるいは昔からの友達とかね。そういうのは、善いカルマと悪いカルマとが混ざっているんだろうけど、そういう人たちに対してはできるだけ悪いカルマを出さないようにして、善いカルマ、例えば慈愛とか、あるいは、真理に則ったものの見方で相手に接してあげると。
 そうすると、相手もそれに巻きこまれるから、もう、なんていうか、そういう世界に入っちゃうんだね、相手も。それか、そのカルマさえ全くなくて、自分から離れていくか、どっちかです。
 だから自分にとってはどっちでもいいんだけども、相手が救われるか、あるいは救われなかったけどそういった悪い縁が消えるか、どっちかだね。
 だからそれは一つの、なんていうかな、身をもってする救済方法だね。そうじゃなくて、相手がこういうことやってきたから、いや俺もこういうことやり返すんだっていう「目には目を」的な発想だったら、全くカルマが終わらないし、怒りにしろ憎しみにしろ、全く終わらないと。
 まあ、世の中の、戦争にしろ、いろいろな人間の行動見ていると分かると思うけど。だからどちらかが愛を持って許さない限り、あるいは相手を幸福にしようっていう発想にならない限り、それは終わらないんだね。

◎慈愛によって幸福に引きずり込む

(T)慈愛の縁とか愛の縁がある相手には、幸せを与えたいと思う、みたいなことがさっきありましたけど、慈愛っていうのは普遍的に与えるなものですよね、相手が誰かとか縁があるかとか関係なく。

 それは言葉の定義のあやみたいなものだけど、それはもう完成された慈愛のことで。
 例えばだけど、よく慈愛を母の愛に例えたりもするけれど、母の愛っていうのは別に、完璧な慈愛ではないんです。しかし慈愛の種子とはいえる。なんでかっていうと、例えば、あるお母さんっていうのは、まあ、すべてのお母さんがそうじゃないかもしれないけど、例えば子供のためにはね、自分は食べないでもいいから子供に食べさせるとか。自分はもう寒くてもいいから、いい洋服を買ってあげるとかね。それは、執着ではあるんだが、もう自分はどうでもいいから相手を幸福にしてあげたいっていう気持ちがあるわけだ。これは執着であるし、しかも、なんていうかな、本当の相手の幸福を願っているっていうよりは、現世的な意味も含めて、自分の思う幸福を相手も得て欲しいと思うものだから、完璧な慈愛とは全く言い難いんだが、慈愛の種子ではあるんですよ。つまり「相手よ幸福になれ」っていう単純な思い。で、こっちは無智だから、それが本当に慈愛として完成していないんですね。でも、この種子が大事なんです。
 で、さっきの例え話のね、じゃあなんで、憎しみの縁しかない私とYさんの間で、まあ例えば、――あの、Yさんばかりをあまり例にするとまずいから(笑)、例えばここにものすごい、誰からもね、否定されるような、憎しみしかないような男がいたとしますよ。まあ、そんな人はなかなかいないかもしれないけど、仮にそういう人がいたとしますよ。でも、どんな人にだって、少しは、人に愛を捧げたとかいうカルマがあるはずなんです。それはまあ、迷妄の愛だったかもしれないけど、本当にすべてを捨てて人のために尽くしたっていうことが、ちょっとはあるはずなんです。で、それを利用するんだね。それが全くなかったら、もちろんできません。できないけども、この何億回と生まれ変わってる中で、それがゼロっていうことはあり得ない。だからそのほんの小さなところを利用するんだね。もちろん自分との間にその縁がない場合、それは大変なことなんだけど、大変なことなんだけど、思い切ってやるしかない。
 だからねえ、皆さんは、例えばこういう発想になっちゃだめですよ。……「いや、あの人と会うと、なんか怒りが出るね」とか。「ああ、あの人はなんか皆から嫌われていて、私もなんかあの人に近寄ると、すごく嫌な気持ちになる」と。「ああ、だからあの人は徳がないから、ちょっと避けよう」とか、そういう発想をしちゃいけない。それは、確かに事実そうなのかもしれないけど、それはもっと言ってしまえば、こちら側に、相手の本当はわずか持っているはずの、その小さな愛の部分に気付くだけの智慧がないんだね。
 だから当然、よく仏教とかでいわれるのは、ゴキブリとか蜘蛛って、皆から、見ただけで嫌われると。あれは、彼らに嫌悪のカルマが多いんだね(笑)。ゴキブリとか蜘蛛自体が嫌悪のカルマが多過ぎるから、皆から嫌悪されちゃうんですね(笑)。何もやってなくても嫌悪されてしまう。蛇とかもそうだけどね。で、人間でもそういう人っていると思うんですよ。何もやっていないのに皆から嫌われてしまう。でもそれは決してゼロではないんですよ、愛のカルマとかは。だからそれは、智慧ある人がそれに気付いてあげないといけない。
 だからそういうのを利用して、自分と相手のその悪いカルマを逆転させてしまうっていうか、それがさっきの話なんだ。だからここで言っている慈愛っていうのは、一応慈愛っていう言葉は使っているけど、相対的な慈愛だね。だから完璧な慈愛っていうのは、ここでいつも言っているような、すべてに平等であって、で、自分のエゴを一切入れずに、かつ、その幸福の定義が、単純な現世的なものじゃなくて、最終的な至福の世界に導こうと。これは完全な慈愛の定義なんです。
 でも、これは我々が普段、はい慈愛を持ちましょうね、っていうときに、この完璧な慈愛の定義をいつも当てはめていたら、誰も持てません(笑)。はっきり言って。T君が例えば、「先生、最近慈愛が出てきたんです」とか言っても……「ん? 平等じゃないじゃないか」とか言って(笑)、ね。「無智があるからダメ」とか言われてたら、全然もうダメ。
 最後の最後でそれは達成されるものだから、まずは相対的な慈愛を高めていくしかないんだね。で、その世界に引っ張り込めるだけでもいいんです。完璧じゃなくても。ちょっとでも、それまでもう、本当に人の不幸しか願っていなかった人が、ほんのちょっとでもいいから、あの人幸せになって欲しいなって願えるようになったとしたら、その魂にとって大きな進歩なんだね。
 でもね、実際にね、そういう人って、普通にいっぱいいるんですよ。私もヨーガ教室をやっているといろいろ相談とか受けてて、普通に、「本当に私は人を憎んでしまう」とかね。「人の幸せを願えない」とか。普通の人でですよ。普通にちゃんと、立派に働いているっていうか(笑)、立派に普通に活動している人とかで、「いや、実は」とかいって、そういうことを言っている人がたくさんいる。
 あるいはもう、ずーっともう十年以上も昔の、嫌なことをされた人のことを、その人を殺すイメージをずーっとしていたとかね。そういうことを普通に言う人もいっぱいいる。
 まあ、ここにいるみんなはそうじゃないのかもしれないけど、そういうその、なんていうか、人間の悪しきカルマの連鎖みたいなものがあるんだね。相手もそういう世界に巻きこまれているわけだし。そういったものをこちらから断ち切っていくと。断ち切ってというか、変化させていくということができたら、ちょっとまとめになるけども、それはそれで素晴らしい救済になる。言葉で、「はい君、こうしなさいよ」ってやるよりも、その方が素晴らしいかもしれない。
 だからここは、
「怨みに報いるに、怨みをもってしたならば、怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ」
とありますが、これをもっと積極的にいうならば、怨みに対して慈愛をぶつけると。これがもっと素晴らしい。これは単に「やむ」だけではなくて、積極的に相手を幸福の領域に引きずり込むっていうか、そういう効果を生むでしょう。

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