『釈迦牟尼如来』(5)
このようにゴータマはひたすらに修行に励みましたが、完全な智慧を得ることはまだできていませんでした。そこでゴータマは、このように考えました。
「過去・現在・未来においてどんな修行者がいたとしても、私以上に激しい苦行をなした者はいないであろう。それなのに、私はいまだ、人法を超えた最勝智見が得られていない。悟りに赴く道が、他にあるのだろうか。
--私は以前、まだ出家する前に、涼しいジャンブ樹の木陰に座り、一人で瞑想し、欲望を離れ、不善の事柄を離れて、熟考と微細な思慮を行ない、遠離から生じた喜楽に満ちた、色界の第一禅定に入っていたのを覚えている。これこそが実に悟りに赴く道なのではないだろうか。」
そしてさらにゴータマは、こう考えました。
「全ての欲望と不善法を離れた楽を得るには、このようにひどく痩せ細った体では、容易ではない。さあ、私は粗食を求め、身体の力を取り戻そう。」
ゴータマがそのように考えていたとき、セーナー村のスジャーターという娘が、乳粥を持って近づいてきました。スジャーターは、毎日そこの樹に対して供物をささげていたのです。スジャーターがいつものように樹に近づくと、骸骨のようにやせ細ったゴータマが、そこに座っていました。スジャーターは、この苦行者は樹の精であると考え、乳粥をゴータマに供養しました。ゴータマはそれを食べ、体力を取り戻しました。
その当時、誰にもまねのできないほどの苦行を行なっていたゴータマは、苦行者達のリーダーとして尊敬され、五人の苦行者仲間が、ゴータマに仕えていました。しかし彼らは、ゴータマが乳粥を食べているのを見ると、
「出家修行者ゴータマは、勤め励むことに気の迷いが出て、贅沢に陥ってしまった。」
と考え、嫌悪して、ゴータマのもとから去っていってしまったのでした。