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ロド・タイェの歌

ロド・タイェの歌

 「サマーディラージャスートラ」などで勝者によって予言された彼、カルマ・ガクワン・ヨンテン・ギャツオと呼ばれる栄光なる聖なるグル、ロド・タイェは、マハームドラーの悟りを成就し、このヴァジュラのドーハーを書いた。

 八つの善き性質を有すると言われている
 輝ける者、ヴァジュラダラは、
 われわれのような普通の人によっては、人間の姿に見える。
 あなたは、祝福をもつパドマという帰依処。
 わたしは、わたしの心の八枚花弁の蓮華から、
 一瞬たりとも離れないよう、あなたに懇願します。
 わたしは、一度も悟りと解脱という幸運を得ていないにもかかわらず、
 ただ自己の本性を認識するという恩恵を受けている。

 このように、八つの世俗的ダルマへの関心は減少し、
 わたしは、グルと心を混ぜ合わせることで、
 名高い光り輝くダルマカーヤを明らかに見た。
 わたしは、散漫な思考の中に無思考を発見し、
 非概念の中に、智慧が現れた。
 今、タクポ・ブッダの系統の息子の喜びに満ちた感謝の念を持って、
 わたしは、はっきりと述べる気になった。

 西方の秘密の宝石のダーキニーの土地、ウッディーヤナにて、
 偉大なるシッダ・ティローパは、
 三宝の宝を開いた。

 北方の魅惑的な美しい花の僧院にて、
 博学のマハーパンディタ・ナーローパは、
 プラーナと心が不可分なシッダの印を示した。

 南方のトウォの渓谷の薬草の国にて、
 至高なる存在、シェーパドルジェは、
 一生で合一の境地を得た。

 東方の天のようなタクラ・ガンポにて、
 尊敬に値する医師、二番目の勝者は、
 十番目のブーミのサマーディを悟った。

 身口意のチャクラの中で、
 四つの偉大なる系統、八つの小さな系統のシッダの主は、
 マハームドラーの生命力を獲得し、
 悟りを得ざるをえなかった。
 菩提心によって引き付けることに熟達し、
 彼らは、衆生を利さずにはいられなかった。
 二つの集積の完成、深遠なる財産を獲得し、
 彼らは、繁栄せざるをえなかった。
 一つが一切を解放すると知り、完全に理解するならば、
 彼らは、天啓を果たさざるをえなかった。

 これらの富める父の系統の息子たちは、
 この過去のカルマの偉大なる自己存在の豊かさを有している。
 彼らは、雪の雌ライオンと偉大なるガルーダの子供たち。
 彼らの家系の血統の力によって、彼らは、瞬時に完全に成熟する。
 カギューのシッダの系統の追随者として、
 彼らの瞑想は、彼らの祝福の力によってありのままに生まれる。

 修行の多くの年月の苦悩の自慢、
 怠惰に住する誇り、
 そのような苦悩に耐えた自慢、
 他者への卑下、横柄、
 ブーミと道の悟りを数え上げ、
 自と他という散漫な思考で記録を付ける。
 これらは、この暗黒の時代の無智なる瞑想家の性質。
 われわれはこれらを有さず、わたしはシッダの肩書きを得ていない。
 にもかかわらず、前例の系統の素晴らしい口頭伝授によって、
 わたしは、究極のマハームドラーを理解した。

 土台のマハームドラーは、ありのままの事物を理解するという見解。
 道のマハームドラーは、瞑想の経験。
 結果のマハームドラーは、ブッダとしての心の悟り。
 わたしは卑しいが、わたしのグルは素晴らしい。
 暗黒の時代に生まれたが、わたしはとても幸運。
 わたしにはわずかな忍辱しかないが、口頭伝授は深遠なり。

 土台のマハームドラーに関しては、
 ありのままな事物と迷妄の道の双方がある。
 それは、輪廻とニルヴァーナのどちらにも心を向けさせず、
 誇張と中傷の極端から解放されている。
 因によって生産されず、条件によって変化せず、
 それは、迷妄によっても損なわれず、
 悟りによっても高慢にならない。
 それは、迷妄も解脱も知らない。

 本質はどこにも存在しないのだから、
 その現れは、全く遮られることなく、すべてに顕現する。
 空間のように輪廻とニルヴァーナのすべてに偏在し、
 それは、その自ら光り輝く意識と
 アーラヤ識を具えた
 迷妄と解放の土台。
 この中立的な状態の認知の様相に関しては、
 そのエッセンスは空性であり、その本性は光明。
 これら二つは不可分。そして見識の真髄。
 それは、ものとして把握できない空間。
 それは、けがれなき尊い透明な水晶。
 それは、自ら光り輝く心の灯明の輝き。
 それは、表現不可能な無音の経験。
 それは、遮られることのない透明な智慧、
 光り輝くダルマカーヤ、スガタガルバ、
 原初の純粋性、そして、ありのまま。
 それは、誰によっても例示を通じては示され得ず、
 それは、言葉では表現できない。
 それはダルマダートゥ、心の視察を圧倒するもの。

 ます始めにこの中に確立させ、
 一切の疑念を絶つべし。
 見解を持って瞑想を修習するなら、
 それは、宇宙を見抜くガルーダのよう。
 恐れも疑いもそこにはない。
 見解なしで瞑想する者は、
 平原をさまよう盲目の男のよう。
 そこには、真実の道が存在する基準点はない。
 瞑想せずに、見解を有するだけの者は、
 けちに縛られたリッチな男のよう。
 彼は、適切な成就を自と他にもたらすことはできない。
 見解と瞑想を合わせることは、聖なる伝統。

 この中立の状態の無智な様相に関しては、
 人は、五つの因のせいでその本質を知らない。
 同時発生的な無智の海の中で、
 自我執着の迷妄の波は流れる。
 認識は自己となり、投影は他者となる、
 そして、とらわれと執着の習性のパターンは強固となる。
 このように、カルマは集積され、完全に成熟する。
 輪廻の水車の縁は回転するが、
 それが回転している間でさえ、それは真実の空。
 現れはトリカーヤの鮮明性に過ぎない。
 不生は生の本質。
 その不生は不断。
 非二元性の戸口には、住する場所はない。
 表現し難いこの心から、
 輪廻とニルヴァーナのさまざまな魔法の現れは生じる。
 これらを自己解放として認識することは、至高の見解。
 これが悟られれば、すべてのものが本質となる。
 障害も達成も存在しないならば、それは生来の本質。
 概念的な心を超越するならば、それは究極。

 道のマハームドラーに関しては、
 心と現象の世界がマハームドラーである。
 同時発生的な心はダルマカーヤ。
 同時発生的な現われはダルマカーヤの光。
 栄光なるグルの祝福と
 その者のカルマが一体となるならば、
 その者は、古き友に出会うように本性を悟る。

 たくさんの話に要はないが、
 初心者はさまざまな物事が必要だ。
 過去と未来の思考を、迎えることも追い払うことも放棄すべし。
 今という時のこの瞬間の心は、
 つくられることなき生来の本性。
 瞑想の中には、熟考の痕跡は存在しないはず。
 人は、迷妄の中で一瞬でも迷うべきではない。
 非放浪、非瞑想、非偽造が要。
 鮮明、弛緩、明瞭を持って、
 解脱の三つの門の空間で、
 人は正念を持って、正智を確定させる。
 緊張と弛緩のバランスの取れた心を常に維持し、
 人は、微細、具体的、粗雑な思考の集積を静める。
 つくられることのない心、ありのままの境地の中で休息しなさい。

 経験の四つのレヴェルは、連続して現れ、
 光明の太陽は、継続して見え始める。
 マハームドラーの瞑想の根は、確立される。
 それなしでは、高度な悟りを得た者の話は、
 土台のない家を建てているようなもの。
 しかし、これに対しての過度な欲望はマーラの罠。
 忍辱するが、少ししか学ばない者たちは、
 表面的な善によって欺かれ、
 自と他を悪趣の道へと導く。
 至福、光輝、無思考の良い経験でさえも、
 それらに固執していれば輪廻の因となる。

 あなたが、心の中に信仰心を増大させるならば、
 岩は正観の中で骨と出会い、
 究極の系統の祝福が受けられる。
 四つの迷子に迷うことなく、
 三つの誤謬に陥ることなく、
 三つの条件から解放された四つの歓喜を超え、
 生の三つの門によって悟り、
 三人の偉大なる者たちの心によって触れられることなく、
 これは、経験によってけがされることなき自己存在の本性。

 晴れわたった空の中心のように、
 自ら光り輝く心は表現不可能。
 それは、比喩を超越した無思考の智慧、
 裸のありのままの心。
 教条主義や傲慢に従うことなく、
 それは、ダルマカーヤとして明らかに見られる。
 水に映る月のような、六つの感覚の対象の現れは、
 智慧の境地の中で輝く。
 生じるものすべてがつくられることのない生来の境地。
 起こるものすべてがマハームドラーの本性。
 現象界はダルマカーヤの大いなる至福。

 ありのままの休息のシャマタの瞑想、
 そして不可視を見るヴィパシャナーの双方は、
 分けられるべきでなく、
 寂静、生起、気づきの中で統合されるべきもの。
 とりとめなき迷妄の放棄を超え、
 対抗手段の適用を超え、
 あなたがありのままにこれに達するときは来るだろう。

 あなたが悟りに達したとき、
 そこには瞑想状態以外の何ものもない。
 失うことと得ることからの解放の玄関には、
 瞑想さえも存在しない。
 概念化の生え際を溶解させることができないこれらの初心者にとって、
 瞑想は重要だ。
 瞑想を修習するなら、そこには経験がある。
 この経験は、見識の装飾として生じる。
 
 この道は、四つのヨーガに分けられる。
 一つの要点は、心の本性の認識を意味する――
 それは、劣ったステージ、中間のステージ、偉大なるステージに分けられる。
 人は、至福と光輝の循環を理解する。
 人は、サマーディの中に休息することを習得する。
 そして、経験は光輝として不断に現れる。

 シンプルとは、心は根を持たないと悟ることを意味する。
 それは、劣ったステージ、中間のステージ、偉大なるステージに分けられる。
 人は、生起、消滅、維持は空であると悟る。
 人は、現れや空性への固執の土台と根から解放され、
 一切のダルマの複雑性を解決する。

 一味とは、現れと心を互いに溶け込ませ合うことを意味する。
 それは、劣ったステージ、中間のステージ、偉大なるステージに分けられる。
 輪廻とニルヴァーナの一切のダルマは平等の味に溶解され、
 現れと心は、水に水が注がれるようになり、
 一味から、さまざま智慧が生じる。

 無瞑想とは、概念的な心の完全なる消尽を意味する。
 それは、劣ったステージ、中間のステージ、偉大なるステージに分けられる。
 人は、瞑想と瞑想者から解放され、
 真実への根源の信の習慣的パターンが序々に取り除かれ、
 母と息子の光明は共に溶解する。
 ダルマダートゥの智慧は、宇宙の至るところに広がる。

 要するに、瞑想において、
 一つの要点は、ありのままの心のまさに本性を見ながら、
 心は望むだけの間平静であることを意味する。
 シンプルとは、土台のないことの悟り。
 一味とは、正観により一切の起こり得る二元的とらわれを解放すること。
 無瞑想とは、習慣的パターンの滅尽、
 そして、瞑想と無瞑想の一切の詭弁の超越。

 このように、ヨーギーの偉大なる主、
 ナーローパとマイトリーパから、
 主なるグル・パドマ・ワンチェンに至るまで、
 カギューの黄金の花冠は、
 無瞑想というダルマカーヤの王国に届き、
 二つの無明の闇をありのままに取り除き、
 二つの叡智の大いなる力を拡大させ、
 宇宙に偏在する他者のために利益という宝庫を開き、
 疑念から解放された心という帰依処にとどまった。
 それは言葉だけによってでなく、それらの手段によって知り得るもの。
 どうか、速やかに無瞑想の王国に至らせる
 あなたの気高き系統のわずかな印しか有していない
 わたしのような生まれの卑しい野蛮人のような者でさえお導きください。
 優しき者よ、どうか、わたしの概念的な心を完全に滅尽してください。

 結果のマハームドラーはこのように語られる――
 土台は、生来のトリカーヤの伝達を受けること。
 道は、見解と瞑想のキーポイントを適用すること。
 結果は、けがれなきトリカーヤの実現化。
 このように、そのエッセンスは空性、シンプル、ダルマカーヤである。
 その顕現はサンボーガカーヤの光り輝く本性。
 多種多様で絶え間ないその力はニルマーナカーヤ。
 これは一切の真実の統治者。
 マハームドラーの本質は、
 受容と拒絶から解放されたダルマの領域である合一。
 それは思考を超越した慈愛の本性の姿。
 智慧によって、それは輪廻にとどまらない。
 慈悲によって、それはニルヴァーナにとどまらない。
 無努力によって、ブッダの活動はありのままに達成される。
 土台と道、母と息子の光明は共に溶解される。
 土台と結果は互いに抱擁し合う。
 ブッダは心の中に見出される。
 如意宝珠は内にあふれ出る。
 エマ! なんと不可思議なることかな、なんと驚くべきことかな!

 マハームドラーの見解において、
 分析は適用されない。
 よって、心が作り出した知識を放棄せよ。
 マハームドラーの瞑想において、
 思考へのとらわれの道はない。
 よって、故意の瞑想を放棄せよ。
 マハームドラーの行為において、
 一切の行為に対する基準点は存在しない。
 よって、行為する、しないの意志から解放されよ。
 マハームドラーの結果において、
 新たに習得する成就は存在しない。
 よって、期待、恐怖、欲望を放棄せよ。

 これが一切のカギューの心の奥深さである。
 それは、勝者と彼らの息子が旅する唯一つの道。
 それらは、存在の卑劣な輪を逆転させるウパーヤ、
 そして、一生で悟りをもたらすダルマである。
 ここに、スートラとタントラの一切の教えのエッセンスがある。
 わたしと宇宙に遍満する一切の衆生が、
 共に、悟りと解脱の同時性を得て、
 至高なるマハームドラーに到達しますように。

 一切の至高なる様相を持つ空性の指示の封印を破らないように、超越した叡智を持ち、ヴァジュラの保持者の姿で顕現した者、わたし、パドマの家来、ヨンテン・ギャツォ・ロド・タイェは、ツァリのような宝石の岩、三番目のデーヴィコーティの左の傾斜地のクンサン・デチェン・ウーセル・リンでこれを書いた。スバム。

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