死後の世界の渡り方
生きているうちに完全な解脱を達成できれば申し分ない。
その場合、以下のいずれかの道をとることになる。
①輪廻から脱出し、もう生まれ変わらない
②他の魂の救済や、自己の更なる修行のために、意図的にさらなる輪廻を繰り返す。
さて、そこまで行けなかった場合、我々はサンスクリット語でアンタラーバヴァ、チベットでバルドと呼ばれる死後の空間に放り込まれ、そのカルマに応じてさまざまな経験をした後、それぞれのカルマにあった世界に生まれ変わることになる。
このバルドの内容については、いくつかの翻訳が出ている「チベット死者の書」を読んでほしい。そこに書かれている内容がどの程度真実なのかを知りたい人は、修行し、瞑想し、確かめてほしい。
さて、このバルドというのは、通常は睡眠に似ている。あるいはドラッグ体験にも似ている。深い潜在意識化において、わけもわからぬまま、その潜在意識の良いあるいは悪い心のエネルギーやイメージに振り回される。
このバルドをうまく超えわたり、良い転生、あるいはあわよくば解脱を果たすには、何が必要なのだろうか?
考えられるものを、ざっとあげてみよう。
①徳
②心とナーディの浄化
③上昇のエネルギー
④帰依
⑤慈悲
⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ
⑨強い意志力・集中力
⑩深い瞑想経験
⑪智慧
これら一つ一つについて詳細に説明していたら膨大になってしまうので、簡単に解説してみましょう。
①徳
②心とナーディの浄化
この辺は正確に言うと、悪しきカルマを浄化し、徹底的に功徳を積み、心を浄化する。それらが達成されれば、その人はバルドのことをよく知らなくても、自然に高い世界に生まれ変わるでしょう。
しかしそれには相当自己に厳しく、悪業浄化と善業増大に日々励まなければなりません。現代の生活や観念は、普通に生きているだけでカルマを汚す要因が多いからです。
ナーディとは、私たちの身体にある、気の通り道です。心の浄化とナーディの浄化というのはほぼイコールといえるのですが、方法論として、ヨーガや密教では、ナーディのほうから物理的に浄化していくやり方をとります。
③上昇のエネルギー
人間のエネルギー、これはヨーガではプラーナとかヴァーユといいますが、我々の身体活動も、心の状態も、このプラーナに支配されています。そしてプラーナにはさまざまな種類があるのですが、現代人は特に、下に下がるプラーナの働きが非常に強い状態にあります。そして死後もこのプラーナの傾向は持続され、意識はこのプラーナの流れに乗って、転生すると言われています。単純に言って、プラーナが下に下がっている人は、意識も引き下げられ、低い世界に生まれ変わります。プラーナが上に引き上げられている人は、意識も引き上げられ、高い世界へ生まれ変わります。ですから生前にいかに上昇のエネルギーを保つか、それが重要になります。
ヨーガ修行や瞑想とともに心の浄化、あるいは真理や神や仏陀への希求心。これらが私たちのプラーナを上に向かわせます。その現象として、いつも飛んでいるような感覚がしたり、上に頭が引っ張られているような感覚とか、いろいろな現象が実際に生前から現われなくてはなりません。
④帰依
上にも書きましたが、神、仏陀、あるいは真理そのものといった高い世界の存在に対して心を合わせる。あるいは自己をゆだねる。このような強い意識が、バルドにおいて我々を良い状態にいざなってくれます。
たとえば日本では南無阿弥陀仏の浄土真宗系が最も信者が多いといわれますが、南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏、すなわち蓮華部に属する智慧と慈悲の如来であるアミターバ如来に帰依いたします、という意味です。その意味をしっかり理解した上で、南無阿弥陀仏、まあ正確にはナマ・アミターバとかナモー・アミターバとかいうマントラを唱えるならば・・・アミターバの西方の極楽浄土に生まれ変わる、と言われるわけですが、これは理論上は可能です。
なぜでしょうか? それはもしそのマントラによって、心がアミターバでいっぱいになり、アミターバのことしか考えられない、あるいはアミターバがあらわす慈悲や智慧のことしか心に浮かばない、そのような状態になったなら、バルドにおいてもアミターバが現われ、皆さんを救済してくれるでしょう。
しかしこれも理論的には可能だが、実際は非常に難しいということにはお気づきでしょう。毎日悪業をなし、良くない思いを抱き、そして一日に数回、あるいは数百回、アミターバに帰依します、と唱えたとしても、それで心がアミターバでいっぱいになるわけはありません。
だからこの帰依の道、すなわちバクティ・ヨーガ系の道をたどる人は、その帰依の対象に一心に心をゆだね、それ以外のことは心に全く浮かばないくらい、放棄する覚悟が必要です。
それにより本当にそのような高い世界の存在と絆が強く生じたとき、我々はこの帰依の道に成功するでしょう。しかし私が思うには、たとえばアミターバへの帰依が成功しても、極楽浄土にその人が行くとは思いません。その場合、アミターバの慈悲によって、その人にとって最も修行が進む世界に送り込まれるのではないかと思います。
ところで、帰依の対象はもちろん間違わないようにしなければなりません。といっても、阿弥陀如来より大日如来のほうがいいとか、そういうことを言っているわけではありません。仏教のそういう如来や菩薩とか、ヒンドゥー教のシヴァなどの最高神とか、これらは皆、解脱や慈悲を説く、同じ属性の神であると思います。しかしそうではなくて現世利益を説く低級の神や悪魔、あるいは金儲けや現世利益に奔走する宗教の教祖などに帰依をした場合、自分もその同じ世界に引っ張り込まれてしまいます。
だからこの道は、帰依をする前にしっかりと帰依の対象を吟味すべきだといわれるのです。しかし一度帰依をしたなら、自分の観念は捨ててひたすら自己をゆだねることも、また重要なのです。
⑤慈悲
この慈悲をあげたのは、私の瞑想経験に基づいています。
端的に言うと、エゴが強いと低い世界に生まれ変わります。
慈悲や四無量心が強いと、高い世界に生まれ変わります。
もっと正確に言うと、慈悲の心が強いと、死後、光と至福のバルドが現われ、そのままそのような世界に引っ張り込まれるのです。
⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ
悟りというのは知識ではありません。しかし生前に悟れなかった場合、この知識が重要になってきます。
といっても、その知識は深く心に浸透されていなくてはなりません。
どういうことでしょうか? たとえば「慈悲はすばらしい」という知識があったとします。これはこれを知っているだけでは、全く意味がありません。この意味を本当に悟ったなら、この人は何もしないでも救われます。しかし悟っていなくても、このことを日々考え、あるいはそのようなことを書いてある経典をひたすら読んだり瞑想したりした場合、この考えは、悟ってはいないんだけど、その人の心に浸透します。
たとえば恋愛のドラマばかり見ている場合、そのような印象、そのような考え方や生き方がいいんだという情報が心に根付いていきますね。それと同様に、真理の正しい考え方を、悟ってはいないんだけど、こころに根付かせることが重要なのです。あるいはイメージもそうです。我々は日々、変なイメージをしたり、あるいはどうでもいいテレビや映画や本などでイメージを汚しているわけですが、密教的な瞑想などで徹底的に神や慈悲や光のイメージを心に根付かせるのが重要です。
それらに成功したらどうなるでしょうか? まず夢が変わりますね。夢見が悪い人が、死後のバルドで良い経験をすることはありえません。夢もまたバルドですから。夢においても、起きているときも、自然に良い思考やイメージが出てくるようになったとき、死後のバルドでもそれが出てくる確率は大きいでしょう。
さて、意識の鮮明さとはなんでしょうか? たとえば夢も見ない人、これは簡単に言えば意識が相当不鮮明であり、ヨーガ的に言えばタマスという闇のエネルギーが強い状態です。あるいは瞑想するとすぐ寝てしまうとかボーッとする人もそうですね。
覚醒時も瞑想時も睡眠時も鮮明な意識が保てるようになると、死後も比較的鮮明な状態になります。そうなると、生前の知識が出てきやすくなるのです。
たとえば地獄のカルマが強い場合、死後、憎しみの対象のイメージが現われ、それに強い怒りを抱くことで、地獄に引き込まれるといわれます。しかしまだ憎しみのカルマはあるんだけど、死後、そのようなヴィジョンが現われたときに、意識が鮮明だと、「慈悲の重要性」「憎しみは地獄へ導く」という知識がよみがえり、そこで「ああ、憎しみはいけないぞ。彼らを愛そう」というふうに思えるかもしれません。しかし意識が不鮮明だと、死後のバルドでそんなことを考えるのは不可能で、夢を見ない人と同じように、ボーッとしてわけのわからないまあ、気づいたときには地獄に引きずりこまれている、ということがおきます。
気づいた人はいると思いますが、結局このバルドとそこからの生まれ変わりというのは、心理的プロセスなのです。いや、我々が現実と思っているこの今生の人生も、心理的プロセスに過ぎません。しかしこの一生、誕生から死といわれる瞬間までの一生は、ある意味ある程度動きの少ない、固定的な心理プロセスといえるでしょう。だから70年くらいの長い夢を見続けるわけですが、死というのはその夢からいったん解き放たれ、次の夢に移行する心理プロセスに過ぎません。もしここで夢から目覚めることができれば、それが解脱です。しかしそれは難しいので、少なくとも良い心理プロセスによって良い夢の世界に移行すること、これが良い転生を目指すということなのです。
さて、話を戻しますが、意識が不鮮明だとしても、良い知識やイメージが深く心に根付いていれば、自然に良い夢を見るのと同じように、自然に良いバルドの状態になり、良い転生をする可能性が増します。
逆に良い知識やイメージの根付き方が弱い場合も、もし意識が鮮明であれば、それらの知識を思い出し、死後に使うことができます。これは夢を操作できる人に似ています。悪い夢を見たんだけど、意識が鮮明なので「これは夢だ」と気づけた場合、その悪い夢を意識的に良い夢に変化させるようなものです。「夢のヨーガ」の修行では、実際にこういうことを行ないます。
もちろん、良い知識やイメージが深く根付き、かつ意識も鮮明であるというのが、一番良い状態です。
⑨強い意志力・集中力
ヨーガのポイント、特に古典と呼ばれるヨーガ・スートラの主軸であるラージャ・ヨーガのポイントは、強い集中力であり、それは言い換えれば強い意志の力です。
これも端的に書きましょう。いかにカルマが悪くて心が流されそうになっても、強い集中力・意志力があれば、少なくともそのような悪い世界に流されるのを避けることはできるのです。
これはちょうど、ものすごい急流の河--ちょっとでも気を抜けば流されてしまう河の中で、強い意志力で向こう岸まで泳ぎきるようなものです。
なぜならすべての悪しきイメージも良いイメージも、集中力の欠如から起こるからです。もし我々に真の集中力があれば、そこには真理の世界しか見えないのです。
これについては深い話になるので、これくらいにしておきましょう(笑)。
⑩深い瞑想経験
瞑想ごっこではなく、本当の意味で深い瞑想に入った場合、それは死後の世界とも非常に似ています。あるいは、死後の世界そのものを意識的にあるいは無意識的に経験する瞑想もあります。
そのような経験は、死後への予行演習となります。つまり何度も来た道を、また死後もたどることになるわけですから、慣れているわけですね。
たとえば初めてインドに行った人は、悪徳旅行会社にだまされたり、偽のシルクを買わされたり、土産物屋でぼったくられたり、いろいろするかもしれません(笑)。しかし何度もインドに行ってそれらになれ、彼らのやりかたがよくわかっていれば、次に行ったときもそういう目にあうことはないでしょう。
同様に、生前に深い瞑想を繰り返すことで、死後の世界というのもその人にとってはなじみのないものではなくなり、うまくわたりやすくなるというわけです。
⑪智慧
単なる知識ではなく深い智慧が心に生じた場合、もちろん完全な智慧が生じていれば、その人は輪廻から解放されるでしょうし、死後のバルドさえ経験する必要はありません。しかし完全ではなくても段階的な智慧が心に生じているならば、当然、それらも死後に心にあらわれ、私たちを正しい道へと導くのは間違いないでしょう。
さあ、どうでしょうか? これらをすべて得られれば申し分ありませんが、一つでも二つでも達成されるならば、その人の転生はうまく行く可能性が高くなります。ですからもう一度書きますと、
①徳
②心とナーディの浄化
③上昇のエネルギー
④帰依
⑤慈悲
⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ
⑨強い意志力・集中力
⑩深い瞑想経験
⑪智慧
これらの項目を生前にできるだけ確定させるように努力すべきですね。素質と努力と良い師匠などの条件が整えば、これらによって生前に解脱・悟りを得ることも可能でしょう。解脱・悟りを得られなかったとしても、これらの確定度合いによって、良い条件で死後の転生をすることができることでしょう。
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