ヴェーダーンタの実践(5)
◎ブラフマン(神)の実在
46の論拠
1、パラーブラフマンは立証することができない。
しかし、ある経験に基づいた事実からその実在性を推測することは可能である。
ブラフマンという存在は、すべてのものの自己であるということを根拠として知られている。なぜなら、すべてのものは自らの自己の存在を自覚している。だから決して「私は存在しない」などとは考えないのだ。
もし自己の存在を知らなかったら、皆は「私は存在しない」と考えるであろう。
このすべてのものを意識している存在である自己がブラフマンである。
パラーブラフマンを定義するのは難しい。しかし、仮定してみよう。
それはサット・チット・アーナンダ(絶対なる実在、絶対なる智慧、絶対なる歓喜)である。
2、眼を閉じて、少しの間、自分が死んだ、と想像してみよう。
しかし決して、あなたは無になることはできないだろう。
あなたは、自分が存在していない、ということを考えることは絶対にできないのだ。
あなたは、自分の死体が横たわり、自分がその死体を見ている、という光景を思い浮かべるだろう。
これは、あなたは常に「鑑賞者(サクシ、ドラシュタ)」であるということの明らかな証明である。
皆の中には「私は存在する(アハム・アスミ)」という生来的な感覚があるのだ。
3、「私」というのは「立証する」という行為の土台となるものであるから、それゆえに「立証する」という行為の前に、それは明らかに存在しているのだ。
そしてそれが真我の性質であるから、それを否定するというのは不可能なのである。
ブラフマンを否定しながら、あなたは自分自身を否定している。それは論理的にばかばかしいことだ。
ブラフマンは、すべての前提、証拠、一切の意見というものの土台となるものなのだ。
-
前の記事
「あらゆるものへの支配力」 -
次の記事
ヴェーダーンタの実践(6)