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菩薩の道(5)その5「初禅」

 さて、原始仏教では正しいサマーディや瞑想の説明では、まず四禅の話が出てきますね。大乗や密教ではさまざまなサマーディや瞑想の話が登場しますが、四禅が基本的中心的位置にあるのは変わりありません。よって次にこの四禅の話に入っていきましょう。

 さて、この項目に関しても、原始仏典などで示される伝統的な経典の言葉に、私の経験も絡めて書いてみたいと思います。
 私の知る限りでは、この四禅等について、経験的な話を書いている人はほとんどいません。もちろん私の経験にも間違いはあるかもしれませんが、仮に私の経験が真の四禅ではなかったとしても、その内容自体は皆さんに利益になるだろうと思いますので、少し書いてみたいと思います。

 まずはじめに初禅においてなすべきことは、二つあると私は思います。
 その一つは、深い意識下における、教えの考察です。
 これは深い瞑想に入らないといけません。普段の、ああだこうだ考えている意識で考えるのとは、ちょっと違います。普通の思索というのとはちょっと違う思索です。 
 そして第二に、自己の深い意識化の情報の観察と対処を行ないます。
 これが、私が書きたかった、第三番目のヴイパシャナーです。
 しかしこれも本当のヴィパッサナーではありません。
 ここの段階の話を少ししますと、非常に深い瞑想に入ります。
 瞑想というのは、その感覚を少し言いますと、本当に、違う世界に入ります。
 座っていて、ああ、気持ちいいなあ、とか、なんとなくこんな感じとか、そういう曖昧なものではありません。
 本当に、ドアを開けて違う部屋に入ったように、ハッキリと世界が変わります。そうでなくては駄目なのです。
 その深い意識化への没入を、何段階も繰り返します。そうして鮮明な意識のまま、自分の深層心理の中に入っていきます。
 そしてそこを実際に観察するのです。
 実際は、いろいろな部屋があります。それはここに書ききれないので書きませんが、ほんとうにいろいろな世界が、我々の内側にあります。
 そしてそこにあるのは、まあ、言ってみれば、我々が小さいときから、そしてもっと前の過去世から、さまざまな経験によって積み上げてきた、情報の集積です。
 これらはすべて幻影です。しかしその幻影の集積が、今の我々の性格や考え方、ものの見方、習性等を作り上げています。
 言ってみれば、瞑想によってこれらの幻影の整理を行なうわけです。
 幻影といっても、いろいろあります。
 あるタイプの幻影は、それを認識しただけで消えます。これは面白いものです。「あ、こんなものがあったのか」と認識しただけで、それが消えるのです! そしてそれが原因となって生じていた自分の心の問題等も、一瞬にして消えます。
 しかしもちろん、認識だけでは消えない幻影が多々あります。それに対してさまざまな方法で、対処し、浄化し、整理していきます。
 もちろん逆に正しい考え方、正しい物の見方等も、この深い意識化で形作っていきます。

 さて、ここで忘れないうちにちょっとまとめておきましょう。

 ヴィパッサナ、つまり観察の瞑想というのは、広い意味で言えば、四段階くらいに分けられるのではないかと書きました。
 その四段階よりもさらに前にあるのは、単純に自分の体の動き等を観察・認識しながら行なうことです。これはヨーガの技法としてはありますが、お釈迦様が言っている「歩くときも立つ時も正智して行なえ」というのは、ちょっと意味が違うのではないかと、個人的には思います。しかし現代の上座部などではこれをまずやらせているようですね。
 私が思うところの第一段階のヴィパシャナーは、そうではなくて、肉体・感覚・心、そしてこの世界に対する正確な観察と分析です。
 次に、その観察した内容や、他の真理の内容を、記憶し、繰り返し心に植えつける作業があります。そして自己の日々の身の行ない・言葉・心の働きを常に監視し、その真理の内容から外れないようにすること。これが第二段階のヴィパッサナーだと思います。そしてお釈迦様がおっしゃる「歩くときも立つ時も正智して行なえ」というのはこれを指していると私は思います。
 そして次に、その念正智を土台にして本格的にサマーディに入り、その深い瞑想下における、自己の心の中にある汚れや幻影の観察。これが第三段階のヴィパッサナではないかと考えます。
 しかしこれらはまだ準備であって、本当のヴィパシャナーというのはそうではなくて、こういった作業が終わり、心が静まり、心の本質が現われてきた段階で、その心の本質を見つめるのです。
 いや、これについても、さらに二段階くらいに分けられるかもしれません。一つは、この心の仕組みそのものを見つめるのです。これは四念処の心念処と近いですが、実際はもっと深いものです。
 そしてより深いヴィパッサナーは、心の本質そのものを見つめるのです。ここでいう心とは、捨て去られるべき心念処の心ではなく、さらにその奥にある本質といってもいいでしょう。
 そしてそれが智慧波羅蜜へとつながっていくわけです。

 さて、話を戻しますと、深い意識化における教えの考察と、自己の潜在意識の観察と整理、これによって何が起きるのかというと、心の中から欲望が減り、また不善の要素が減っていきます。そして慈愛を初めとした、善の要素が増えていきます。
 その結果として、「喜び」と「楽」という状態に至るとされています。 
 経典の日本語訳ではよく、「欲望を離れたことによる喜びが生じる」というような感じで、ちょっと観念的な曖昧な意味でとられがちなんですが、私はこの果報は、そういう曖昧な状態の説明ではなく、ハッキリした段階の規定であると思います。
 その「喜び」とは、精神的に非常に喜びに満ちた状態です。それは観念的なものではありません。「ああ、欲望から離れることはいいなあ」と言って観念的に喜ぶことではありません。別に何も考えなくても、なんだかうれしくてたまらないのです(笑)。心が整理されてくるとそうなります。これは興奮状態とも違います。非常にクリアで整理された心から生じる、独特の喜びです。幸福感とか満足感とも違います。
 そして「楽」とは、これはたとえば密教でも「楽」ということをよく言い、最高の智慧は最高の楽と同一であるというようなことを言い、さまざまなタイプの楽を規定するわけですが、誤解を恐れずに言えば、この密教でいう楽と、初禅から生じる楽は、大雑把に言えば同じだと思います。
 それはエクスタシーなんですが、肉体的・性欲的エクスタシーではありません。そういう段階はもっと前で、ここでの楽は、もう少しなんていうか、内面的なんだけど、純粋に精神的なわけでもありません。そして肉体的ではないんだけど、ものすごく激しいことは激しいです。それは、まあ、砂糖をなめたことのない人に砂糖の味を伝えるのが難しいと同様に、難しいことですね(笑)。しかし強烈な快楽があります。それは上昇傾向の快楽であり、意識を鮮明にし、かつとろけさせ、かつ安定させるような快楽です。その快楽にともなって、心の安定と、同時に躍動感というか、生き生きとした感じも強まります。
 そしてこれが、より深い禅定の準備になっていきます。

 さらに、この深い瞑想に不可欠な要素として、軽安という状態もあります。
 この軽安も、一般には、原始仏教でも大乗仏教でも密教でも、心身が軽快なこと、くらいにしか言及されないようですが、これも私の経験では、もっとハッキリしたある段階の境地です。
 それは、究極的な心身の軽快さともいいますか。まあ、そのままなんですが(笑)、身体の感覚が感じられず、心の重さも感じられず、かといって浮ついているわけでもない。それは「無」というよりは「満」ですね。しかも滞りのない「満」といいますか、そういう感じです。
 ヨーガ的・密教的表現を使うならば、浄化されたナーディ(気道)に、浄化されたプラーナ(気)が充満したかのような状態です。いや、実際、霊的身体的見方をすれば、そのようになっているのだと思います。
 これは瞑想中ではなく普段もその状態が続き、いつも空を飛んでいるような、あるいは身体の枠組みがなくなってすべてにひろがっているような、そういう満ち足りた軽快さがあります。
 この状態は、深い瞑想に入り、それを保つには、不可欠な境地です。

 さて、また長くなってしまいました。続きは次回にいたしましょう・・・

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