yoga school kailas

簡潔・解脱への道

 多くの徳の積み重ねによって生まれた体、全ての衆生を幸福に導く言葉、そして全てをありのままに観る心--これら全てを具えた釈迦牟尼如来に礼拝いたします。

 勝者のなさったこと全てを肩に担い、無数の世界に化身して遊戯する、マイトレーヤとマンジュシュリーに帰依いたします。

 はかり知れないプラジュニャー・パーラミターの真意をありのままに注釈なさった、ジャンブ州の飾り、三界全てに名声がとどろく、ナーガールジュナとアサンガのお二人に帰依いたします。

 今生と来世で考えられる限りの善を積むための条件が正しく整うためには、道を教えてくれる最高の師に対して、努力して正しく師事することが根本である。たとえ命に代えても師を捨てるようなことはせず、そのお言葉通りに修行することによって師を供養し、喜ばせる必要がある。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 この有暇に恵まれた人間の身体は、仏道修行の無上のよりどころであり、如意宝珠よりも価値あるものである。このような幸運に恵まれることは、めったにないことである。それは得ること難しく、得ても稲妻のように失いやすい。

 このことによく思いをめぐらして、現世の行為は全てむなしい行為であると理解して、昼夜を問わず、常に心髄を得るように心がけなければならない。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 死後、悪趣に生まれないという確信はなく、その恐怖から守ってくれるものは、三宝以外にはありえない。それゆえ、帰依を堅固なものにすべきであり、また守るべき戒を破らないようにしなければならない。

 それはまた、善悪の行為とその果報について正しく思いをめぐらし、善を取り、悪を捨てる、理にかなった実践をよりどころとしている。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 最上の道を修行するためには、修行できるための要素を全て兼ね備えた身体を得なければならない。それゆえ、そのための因となる戒を成就すべきである。

 悪業という垢で汚れた体・言葉・心の三つの門から、悪業という障害を取り除くことが重要である。よって、
①過去の悪業を悔い反省する。
②犯した悪業に対する対抗手段を講じる。
③再び悪業を犯さないように抑制する。
④三宝への帰依と、菩提心。
--この四つの力全てをよりどころにすることが重要である。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 もし、輪廻は苦しみであるという真理に思いをめぐらせるように努めなければ、解脱を求める心が正しく生じるはずはない。
 輪廻の生じる原因の真理に思いをめぐらせなければ、輪廻の根本を断ち切る方法を知ることはできない。
 それゆえ、この輪廻への嫌悪と、輪廻から解放されることを願う心を起こし、また何ゆえにこの輪廻に縛り付けられているのかを知ること、これらが重要である。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 発菩提心は大乗の道の柱であり、偉大なる行ないの基盤でありよりどころであり、あらゆる行ないを功徳と智慧に変える錬金術のようなものであり、無限の善を収めた功徳の蔵である。このように知り、勇猛なる菩薩達は、菩提心こそが宝のごとき最上の心であり、一切衆生を救うための誓願の根本であると理解する。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 布施は、衆生の願望をかなえる如意宝珠であり、煩悩の繋縛を絶つ最上の武器であり、修行に怖気づかない勇気を生じさせる菩薩行である。智者はこのように知り、自らの身体や財産や功徳をあまねく他者のために投げ出すという正しい道を実践する。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 戒は、悪行の垢を洗い流す水であり、煩悩の熱の苦しみを取り除く月の光である。戒を守る人は、一切衆生の中にあってスメール山のように輝き、力で威圧することなしに全ての衆生が心服するようになる。優れた人たちはそのように知り、正しく護持されている戒を、瞳のようにお守りになっている。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 忍耐は、力ある者たちにとっての最上の飾りであり、煩悩に悩む者にとっての究極の苦行であり、怒りという敵を飲み込むものであり、悪口という武器に対する固い鎧である。そのように知り、忍耐という鎧について、さまざまな仕方で正しく習熟する。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 不退転で堅固な精進という甲冑を身につけるならば、聖典を理解する功徳は上弦の月のように増えていき、あらゆる行ないは実りあるものとなり、行為の目的は思いのままに成就する。菩薩達はそのように知って全ての怠惰を退け、偉大なる精進にまい進する。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 サマーディは心を支配する王である。サマーディに入るならば、不動なること山の王のごとくである。そこから心を放つならば、善なる対象全てに向かって働き、心身の軽やかさという大いなる安楽をもたらす。そのように知り、自在なるヨーガ行者達は常に、心の散乱という敵を滅ぼすサマーディをよりどころとする。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 智慧は、深遠なる真実を見る眼であり、生存の根本を根こそぎ引き抜く道であり、あらゆる経典で褒め称えられる功徳の蔵であり、無明の闇を取り除く最上の灯明である。そのように知り、解脱を求める智者は、大きな努力を払い、智慧を生じさせるようにする。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 寂静のサマーディだけでは、輪廻の根本を断ち切る力はない。
 逆に寂静のサマーディを伴わない智慧だけでは、どれほど考察をしても煩悩を退けることはできない。
 それゆえ、真のあり方を正しく認識する智慧を、不動なるサマーディという馬に乗せて、相対的な無明の認識対象全てを滅尽し、真実を認識する叡智を増大させる。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 精神集中に習熟することによって寂静のサマーディを成就した人は、言葉に表される全てのことを正しく考察する正観によって、真実のありようについての不動堅固なるサマーディを生じさせる、と理解し、寂静のサマーディと智慧による正観との二つを相伴って生じるように努力する人たちは殊勝である。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 サマーディにおける虚空のような空性と、サマーディから出たときの幻のような空という二つについて、繰り返し心に刻み付けて、智慧と方便を二つともに修行することによって菩薩行の究極に赴く者たちは、称賛に値する。そのように理解して、寂静と正観のどちらか一方の道で満足しないことが、仏縁に恵まれた者たちの流儀である。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 以上のように、大乗の原因の道と、大乗の結果の道の、いずれにも必要な共通の道を正しく生じさせて、智慧ある船頭である護法神をよりどころとし、密教経典の大海に入って完全なる秘密口伝をよりどころとする者、彼は有暇に恵まれた境遇を得たことを実りあるものとする者である。解脱を求める者は、そのように行なわなければならない。

 自らの心において修習するために、また他の仏縁に恵まれた者にも利益をもたらすために、勝者を喜ばす、あまねく完成された道を、理解しやすい言葉で説明した。この善によって、一切衆生も聖なる道から離れることがありませんように、と請願する。解脱を求めるあなたも、そのような請願を立てられんことを。

(参考:ラムリム・ドゥトゥン)

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