「精力的な手段」
◎精力的な手段
【本文】
②種々の徳性を育むために、そして煩悩を捨て去るために、精力的に強制的な手段を用います。
これはさっき言ったように、間違った極端は駄目なんだけど、正しい極端っていうか、正しい精力的な強制的な手段は必要なんです。っていうかやるべきなんだね。
これもいつも言うけども、お釈迦様は苦行を捨てたといわれてる。もう徹底的に自分を痛めつける苦行を六年間くらいやって、これじゃあ悟れないっていって、最終的に瞑想によってサマーディによって悟るわけですが、そのサマーディに入るときの決意の言葉としてね、「わたしは完全なる悟りを得るまでは、肉が腐ろうが、骨が折れようが、皮膚がぼろぼろになろうが、この蓮華座を決してはずさない」っていって、蓮華座を組んで瞑想に入ったんだね。それで瞑想をし続けて悟ったっていう話がある。
みんなだったらなかなか難しいかもね。「わたしは悟るまではずさない」って言って、一時間位したら「ああ、もう駄目ですと」(笑)、こうなっちゃうかもしれないけど(笑)――じゃなくてそれくらいの、「肉が腐ろうが骨が折れようが悟るまでははずさないぞ」っていう決意。これはだから、ある目から見たら「それ、苦行じゃん」って言うかもしれない。ね。まさに苦行なんです。でもお釈迦様が否定した苦行っていうのは、そうじゃなくて、意味のない苦行なんだね。まさにさっき言った間違った極端。
例えばね、その頃の苦行っていうのは、インドってすごい暑いわけだけど、超暑い中でわざわざまた火を焚いて、火の前に座ってやけどをしながらこう瞑想するとかね。そういう意味の無い苦行――つまり、肉体を意味無く痛めつけることで悟れるっていう間違った思想があったんだね。でもそれは意味が無い。じゃなくて、お釈迦様がやった、正しくサマーディに入る、これはもちろん意味があるわけです。意味があるんだけども、それをやるにはやっぱりかなり辛い。ずーっとこう体を保ってなきゃいけない。それを、もう極端なぐらいにまでやるわけだね。
あるいは、そうですね、ここには「徳を積むために、煩悩を捨てるために」ってあるけども――仏典にはいろんな話があるよね。例えば、みんなも聞いたことある、徳を積むために自分の――あれは腿の肉だったかな――常泣菩薩の話ってあるよね。自分の師匠に布施をするために、自分が何も持ってなかったので、自分の足を買いたいっていう人が現われたので、「じゃあ、あげましょう」っていって自分の足をこう切って売った男の話とか、いろいろあるけども。
何度も言うけども、間違った極端は駄目なんだけども、「今、わたしはこれをやるべきだ」と思ったら、もう極端なぐらいそれをやんなきゃいけないんです。逆にね。徹底的に全力で徳を積む。あるいは徹底的に、もし自分の中に悪しき傾向があるならば、全力でその悪と戦う。こういう要素が必要なんだね。
例えば、これもまた一つの例として、お釈迦様の弟子のアヌルッダって人ね。この人は、お釈迦様の説法中にちょっと居眠りをしてしまった。コックリコックリとちょっとこう居眠りをしてしまった。で、それをお釈迦様に怒られるわけだね。偉大な教えが説かれてるのに、居眠りをしてはいけないと。で、アヌルッダってすごく真面目な人だったから、それをすごく恥じたわけだね。わたしはこんな偉大な聖者にめぐり会って偉大な教えを聞いてるのに、寝てしまうというのは何事だと。で、そこでアヌルッダは決意するわけです。「わたしはこれから決して目をつぶらない」と。これ、極端じゃないかって気もするんだけど(笑)、でもアヌルッダからしたら、それがつまりお釈迦様に対する一つの帰依の表われでもあって、自分に対するすごい戒めだったんだね。つまり、自分はそういう眠りに弱いのかもしれない。あるいは、真剣さが足りないのかもしれない。で、そういう部分を何とかするために、決して寝ないっていう一つの誓いを立てた。それが――一週間とかいろいろ説があるけど、暫くの間、本当にこう目を開けたままずーっと瞑想し続けたら、それによって目をやられてしまったんですね。で、失明してしまった。しかしその失明と同時に、悟りを得たと言われてます。
これもだから、みんなはやる必要はないよ(笑)。ここでみんなが同じことをやったら、それは間違った極端だからね(笑)。やる必要はないけども、でもこれは一つの例です。だからそのときのアヌルッダにとっては、それがやるべきことだったんだね。
だからそのときそのときで、その人その人で、いろいろ違うわけだけど、「あ、これは、おれは今、自分の中のこの悪い部分を何とかするために、徹底的にこれをやるぞ」――それがもし間違っていないとしたらね、それはもう徹底的にやんなきゃいけない。
さっきのシャーンティデーヴァの『入菩提行論』とかでも、煩悩との戦いっていうのをすごくね、表現してるんだね。わたしもそういう部分が好きなんだけど。例えば「わたしは煩悩に掴みかかろう」とかね。「煩悩に掴みかかってねじ伏せる」とかね。あるいは「叩きのめす」とかね(笑)。そういう勇ましい姿勢が必要なんだね。決して、ほんわかとした「まあ、無になりましょう」とか、ほんわかと「さあ、なるようになるでしょう」とかじゃ駄目なんだね。
もちろん、バクティ・ヨーガの思想っていうのは、「さあすべて神におまかせしましょう」ってあるけども、これはいつも言うように、まかせるっていうのは、自分の全人生を委ねてるわけだけど、でもその中で自分の全力の努力はもちろんすべきなんだね。自分でやるべきことは全力でやると。しかし、そこで生じるさまざまな結果や現象に関してはすべておまかせするっていうだけであって、自分は寝てて、「はい神様、わたしを悟らせてください」っていう(笑)、そんな甘い話ではない。自分は自分で、徹底的に自分の悪い部分と戦わなきゃいけない。そして自分のいい部分を伸ばしていかなきゃいけない。それはもう強制的に精力的にやるんだね。だからその勇ましさというか、勇気というか、あるいはそうですね、いい意味での闘争心ね。それは常にわれわれは持たなきゃいけない。
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