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「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(3)

 はい、ちょっと話を戻すけど、ラージャヨーガの方法論で、今言ったようにいろんなものに集中するわけですけども、それらはちょっと練習みたいなもので。で、ラージャヨーガの本命はもちろん、真我なわけです。で、その真我は、真我のアクセスポイントは心臓にあると。これは本当です。
 本当ですというと変なんだけど、ヨーガ的人体論で言うと、われわれの潜在意識、つまりアストラルとか、あるいは霊的世界と言われるところのアクセスポイントは大脳なんですね。だからわれわれが大脳に集中すると、あるいはアージュニャーとかのチャクラに集中すると、われわれは霊的世界を経験しやすくなるね。あるいは低い霊的世界のポイントは臍ですけどね。低いというかわれわれの世界に近い霊的世界だね。高い霊的世界のポイントは頭もしくは眉間になります。
 じゃなくて、霊的世界よりももっと深い、いわゆるコーザルと言われる、原因体と言われる世界は、この心臓なんだね。ここにわれわれがアクセスすると、心臓に隠されているさまざまな秘密を知ることができる。ラージャヨーガって、そういうプロセスを実際はたどるんだね。実際はたどるっていうのは、ひたすら心臓に集中したり、あるいはひたすら大脳に集中したりして、アストラル世界、あるいはコーザルと言われるわれわれの内側の世界を一つ一つ視覚的に経験してくる。視覚的にっていうのが面白いんだけどね。いろんなその――つまりわれわれの心の心理世界を、いろんな色や実際の形を持ったものとして経験し理解していくんです。それを何度もその旅を続けていって、最終的にコーザルよりもさらに奥にある――つまり、一切の世界が消え去った奥にある、真我っていうものにたどり着くと。真実の自分っていうのにたどり着くと。これがラージャヨーガですね。
 で、話を戻すけど、このラージャヨーガがたどり着く真我って一体何なんだってことになるよね。この真我イコール、ヨーガ哲学でいうと、結局は梵我一如というわけですけども、さっき言ったジュニャーナヨーガのブラフマンと変わりないと。変わりないっていうかその、真我っていう認識の段階ではまだブラフマンと差があるんですけども。これはまだ悟りが浅い段階であって、本当の悟りに来ると、「あれ? 結局この真我もブラフマンだったじゃん」みたいになるんだね。つまりその、ラージャヨーガは「真我!」って言ってる。ジュニャーナヨーガは「ブラフマン!」って言っている。ね(笑)。で、バクティヨーガは「至高者、主よ!」って言ってる。違うこと言っているような感じなんだけども、同じなんです。ただ認識の深さが違うだけなんだね。だからバクティヨーガは最も深い認識をしているっていうことですね。これは一つの意味なんですけども。
 で、もう一つの意味は、実際にジュニャーナヨーガにおけるブラフマンの悟り、あるいはラージャヨーガにおける真我の悟りをした人も、のちには必ずバクティにたどり着く、と言われているんだね。これがここで何度も言っていること――だからよく言われてる格言的な話として、バクティヨーガっていうのは、本当に過去生から数多くの修行をしてきた人でないとたどり着けないといわれている。本当のバクティヨーガはね。さっき言ったみたいに、低い信仰っていうのはみんな持つ場合はあるわけですけども、本格的なバクティヨーガの教えや、あるいはその修行に信を持ったりとか、その素晴らしさを理解できる人っていうのは、いろんな修行を積み重ねた後なんだっていう話があるんだね。
 例えばね、この象徴的な話として、ラーマクリシュナに修行を教えた師の一人であった、トータープリーという人の話があるね。このトータープリーという人は、ちょっとはしょって言うと、この人はジュニャーナヨーガの人です。ジュニャーナヨーガね。
 ちょっと話を戻すけど、もしラージャヨーガを徹底的にやりたかったら、さっき言ったように、まず戒律を守るところから始まって、しっかりと座法を組んで長時間座れるようにしといて、あと心を呼吸法その他で安定させるようにして、で、それから精神集中に入るんですけど――この精神集中っていうのが、さっきから言っているように――一切が消え去るほどの、対象が拡大するほどの集中じゃなきゃいけないんで――これにはね、背景として、放棄が絶対必要なんだね。自分がもう、世俗のものに一切興味がないっていう状態を作らなきゃいけない。だからラージャヨーガは、何度も言うけども、ちょっと単体ではなかなか難しいというかな。
 次にジュニャーナヨーガですけども、実はこのジュニャーナヨーガも、テクニックとしてのジュニャーナヨーガ――これは別にできますけども、本当にジュニャーナヨーガ一本でいこうとしたら、これも難しいです。何が難しいかって言うと、これも前に言ったかもしれないけど、本当にジュニャーナヨーガでいく場合、どういうやり方をとるかっていうと、例えばトータープリーなんかいい例だったんだけど。トータープリーっていうのは、ラーマクリシュナがよく「裸の人」って言ってたんだね。裸の人ってあだ名つけてたんだけど、なんでかっていうと本当に裸だったから(笑)。なんで裸なのかと言うと、これはジュニャーナヨーガの人の特徴として、つまりジュニャーナヨーガっていうのは、さっきから言っているように、ブラフマン以外のものを一切否定するわけですね。これが、ただの頭の中での言葉だけの話じゃ駄目なんだね。つまり自分が本当に一切を否定してる――言い方を変えれば、この世に一切に価値を見出していない、幻だと思ってるということを、本当に心の底から確信しなきゃいけない。で、そのために現実的に何をするかっていうと、彼らはまさに――まあ人によるけどね、ある人の場合は、このトータープリーみたいに真っ裸になるんです。真っ裸っていうのはつまり、文字通りの無一物(笑)。よく仏教では無一物って言うけも――あの、皆さんはもちろんそれをやる必要はない。皆さんは精神的無一物を心掛けたらいい。つまりよく言われるように――「わたし」そして「わたしのもの」、これは一切ないんだと。「この世においてわたしとかわたしのものは一切ない。よってそれに決してこだわらない」と。これもヴィヴェーカーナンダの言葉であったけど――「神は、この宇宙に何も持たない者のところにやってこられる」と。ね。これは素晴らしい言葉だね。だからそれを信じて、一切こだわらない。だから「今、わたしの目の前にある服も、あるいはお金も、食べ物も、便宜上、神の愛によってわたしの前に貸し出されたようなものであって、どこにもわたしのものというのはないんだ」と。未来のこともそうですよ。例えばわれわれは物質的にもそうだし、権利っていうのをとてもなんか持ってるような感じがするんだね。例えばレストランに入って、食事が運ばれてくるのが遅いと、ちょっとやっぱりイライラしてくると。「ちょっと、どうしたんですか?」って言ったら、「あ、忘れてました」って言われるかもしれない。で、ここで例えば怒りが出るかもしれない。でもそうじゃないと。わたしはすべてを放棄していると。で、わたしに何かが来るのも、あるいは来ないのも、神の意思であって愛であって――つまり「わたし今お金払って注文したんだから、何分以内に来て当然だ」みたいな(笑)、そんなものさえもわたしにはないんだと。これは一つの例ですけどね。「あらゆるものに対してわたしは、『わたしの』とか、あるいはわたしの権利であるとか、あるいはわたしの物質であるとか、そういうのはないんだ」と。この発想を持てばいいわけですけどね。
 そうじゃなくてジュニャーナヨーガの人っていうのは、そこを一本でいこうとするから、究極的にまでやるわけですね。よって、文字通り無一物。つまり服の一枚も持たずに、真っ裸で放浪するんだね。場所にも長くいると執着しちゃうから、同じ場所にも三日以上いないと。仏教でいうとゾクチェンの修行者とかがよくそういうのやるみたいだけどね、同じ場所に三日以上いないと。で、これを徹底してやるわけだね。
 だから人生をかけて――皆さんの中にはさ、ジュニャーナヨーガというと何かちょっと知的な感じがして、もうちょっとインテリ的な感じがするかもしれないけど、真のジュニャーナヨーガの修行者って、そういうことをやるわけだね。だからこれもちょっと、話戻っちゃうけど、現代ではちょっと難しいね、それを本当にやろうとしたらね。

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