「習熟」
◎習熟
はい、そして「習熟」。「習熟」はこの字のとおりなんですが、まあ最初にもいったように、心の訓練そのものといってもいいけども、ひたすら自分の心を訓練し、その教えに習熟させていくってことだね。
つまりこれは、教えっていうのがまずあって、その教えどおりに生きようという姿勢があって。で、それを、さっきも言ったように、一生かかってもいいから、自分の心あるいはカルマを、それによって方向性を変えていくわけですね。これをひたすらひたすら行なう。これが「習熟」だね。
これは心の訓練の教えなので、ここでいう「習熟」というのは、もちろん今いったような、教えによって心を変える。これがメインとなりますが、実際はそれだけではない。例えばわれわれはハタ・ヨーガ、あるいはクンダリニー・ヨーガ、こういったものを持ってる。つまり例えばですよ、日々気が下がりっぱなしだと――まあ普通一般的な日本の今の生き方をしてたら、気が下がりっぱなしになります。で、ここで教わった呼吸法とかムドラーとかいっぱいやると。それによって、やったときはグーッと気が上がって、いい感じになる。でも修行時間が終わるとまた気が下がる。次の日また気を上げる。また気が下がる。でも毎日やってたら、だんだんスイッチが入りだして、いつも上がっているようになるんです。これもまた別の意味での「習熟」だね。つまりエネルギー的に、そのエネルギーの傾向が、もういい状態にずっとスイッチが入りっぱなしになる。これは別の意味でのエネルギー的な「習熟」だね。
で、実際はこの二つを同時にやらなきゃいけない。なぜかというと、もちろん、この二つっていうのはリンクしているからだね。つまり気が下がっているっていうことは、心が悪い状態にあり、同時にエネルギーも下がってるんです。で、ここを、エネルギーをグーッと強引に上げたら、つられて心もちょっとよくなります。逆の言い方すると、心をしっかり訓練してると、エネルギーも上がりやすくなるんです。よって、この二つを同時にやる。つまり日々の生活の中で心の訓練をしながら、修行時間にはしっかりとエネルギー的な修行をやると。そうすると非常に効率がいいです。
だからこれは、ちょっとまあ心の訓練っていうのとはちょっとずれるけれども、エネルギー的なね、「習熟」といってもいい。
心の訓練が達成されると、その人は、教えがあたりまえになる。つまり「教え即自分」になるわけだね。これがもちろん理想だね。つまり、「あ、こういう思いを持ってしまいそうになる。ああ駄目だ駄目だ、これだ」――じゃなくて、自然に発する思いが教えそのものになる。これが理想。
で、エネルギー的にはそうじゃなくて、もうデフォルトっていうか、もうベースが気が上がって気が通っている状態。もちろん人と接したりして悪くなる場合もあるかもしれないけど、元に戻ると、もうそうなってしまう。この状態ね。これが最高ですね。
つまり、そこまでもっていかなきゃいけない。これが「習熟」だね。だからこれは、何度もいうように、繰り返し繰り返し繰り返し修行を続けると。
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