yoga school kailas

「祈りと回向」

◎祈りと回向

 はい、そして最後に、「祈りと回向」。

 はい、まずこの「回向」っていうのは大事なわけですが、「回向」というのは、まあ聞いたことあると思いますが、われわれの日々行なっている修行、あるいはいろんな教えを学ぶとか徳を積むとか、そういったものの方向性ね、この方向性を衆生のために――まあもうちょっと正確にいうならば、自分と衆生の悟りのために、すべて振り向けるっていう気持ち、「祈り」だね。この気持ちを常に持たなきゃいけない。

 つまり、われわれが例えば徳を積んだ場合、心の中に「あー、女にもてたいな」とかあると、そっちに流れます(笑)。で、女にもてるかもしれない。でも仏陀にはなれない(笑)。ね。こんなんじゃしょうがない。こんなの、いつもいろんななところで漏らしてたらしょうがないよね。

 あるいは、自分だけの平安。「いや、本音言うとおれは人のことはどうでもいい」と(笑)。「自分だけが悟りを得て、早く平安を得たい」って思ってたら、そっちに流れる。

 じゃなくて、自分以外のすべての魂の悟り、安らぎ。で、そのために自分は手伝わなければいけないんで、そのために自分も早く仏陀にならなきゃいけない。この流れっていうかな、これのみに自分の積んだ徳や、修行のパワーっていうものを向けましょうと。向けたいですと。このような「回向」の祈りを日々行なう。これは一番大事なことですね。

◎さまざまな祈りの実践

 で、もちろんそれだけではない。ここで書いてある「祈り」っていうのは、とても簡潔に書かれているわけだけど、いろんな意味での祈りをわれわれは日々しなきゃいけない。

 例えば、一番最初にはやはり「発願」が必要です。これは「決意」とも関わってくるけど、さっき唱えたような『発菩提心の詞章』とかもそうだけどね。われわれは例えば、朝起きたとき、あるいは何か修行を始める前に、本当は「発願」をするといいんですね。つまり、これからわたしがやる修行は衆生のために――つまり人々の幸福のためにやるんだと。あるいは、その人々の幸福を達成することができるような自分になれるためにやるんだと。このような「発願」ね。「どうかお力をお与えください」と。これを仏陀や至高者に祈ると。

 あるいは、終わった後はさっき言ったように、回向するわけですが、あるいは懺悔とかもそうだね。懺悔とかももちろんこの祈りに含まれる。毎日夜寝る前に一日のことを振り返って、仏陀や神に祈る。「ああ、わたしはこんなことをしてしまいました。申し訳ありませんでした」と。「わたしは本当にこんなにひどい魂ですが、どうかお救いください」と。「もう絶対こういうことはいたしません」と。こういった日々の実践によって、高い世界とのパイプを作る。そしてその祝福を日々請い願うんだね。

 この「祈り」の実践ね、これはとても大事です。もちろんここでいってる「請い願う」ってのは――そういうものっていうのは、ちょっと卑屈な感じがしていやだって人がいるかもしれない。わたしもね、昔、高校生とかのころって、そういうのはちょっといやだなって気持ちがあった。何ていうか、道は自分で切り開いていくものであって、神とかに祈りたくないっていうか、そういうのがあったんだけど。まあ、ある時期からそれが間違えだって分かった。つまりもっと純粋な気持ちなんだね、神に祈るっていうのは。神に助けを請うのはもうあたりまえの話であって。ただ甘えてるわけじゃないんだね。甘えてるわけじゃないんだけど、何て言ったらいいのかね――結局人生って――人生っていうかな、修行もそうだし、人生もそうだけど、お釈迦様がいうように、人生の正体は本当に苦しい。あるいは、修行を本格的にやったら,やっぱり本当に苦しいんです(笑)。そうなったらもう本当にね、助けを呼ばずにはおられないんだね(笑)。ちょっと変な言い方だけど。でも、実際そうなんです。そこで、初めて自分の無力さに気づく。

 それは逃げとか甘えではないんだね。全力でやってるがゆえの、謙虚さなんだね。「本当に自分というのは小さい存在であって、本当に仏陀や神の加護なくては、一秒たりともわたしは何もできない」っていうことにやっと――例えば、そういった修行上の大きなものにぶつかったときとか、あるいは人生の大きなものにぶつかったときに、やっと分かるわけですね。だからその気持ちは忘れちゃいけない。だから日々その祈りを捧げる。

 ただもちろん、それは甘えになっちゃいけないよ。「僕はなにもやりませんけど、どうか助けてください」って(笑)、こんなのは駄目です(笑)。

 だから日本のいいことわざで、「人事を尽くして天命を待つ」ってあるけど、それに似てるかもしれない。つまりもうやることは、できることは全力でやらなきゃいけない。しかし同時に、すべてを神におまかせしてるっていうか。そういう感覚ですね。

 それによって日々――今言ったような、例えばスタートの「発願」。あるいは終わった後の「回向」。あるいは一日の終わった後の「懺悔」ね。で、もちろんそういうことを例えば、日々いろんなことをもうちょっと細かくやってもいい。例えば、「あ、今のちょっとまずかったかな」って思ったらすぐに懺悔をするとか。あるいはいつも言うように、なにか美しいものを見たりおいしいものを食べたりしたら、すべてをそれを供養するとか。このようなわれわれと至高なる存在との繋がりを常に意識するような「祈り」っていうのが大事なんですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする