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勉強会講話より 「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(2)

 だからもう一回戻しますが、バクティの大きな三つの特徴の一つとして、「すべての活動を至高者に捧げる」と。で、これは――ここでさ、このナーラダがこの二つの言葉でバクティを代表させているわけですけども、別にその――「じゃあこの二つしかないのか?」っていう意味ではなくて、逆に言うと、この二つの中にあらゆるバクティの要素を集約させてる、と言ってもいいのかもしれない。だからいつも言う、例えば「わたしは神の道具である」と。「神だけが行為者であって、わたしはただ神に動かされてる機械である」と。「人形である」と。この言葉も、この考えもこの言葉に含まれると言ってもいいでしょうね。つまり「至高者にすべての行動を捧げる」。
 つまりその「わたしの活動じゃないんだ」という発想ですね。わたしがわたしの意志で、あるいはわたしのエゴで、この人生を生きてるんじゃないだと。
 ここもね、ちょっと非常に、微妙な智慧が必要な話なんだね。それはなんなのかっていうと――もう一回言いますよ、まず初歩的には能動的な感じで考えてください。能動的な感じで考えるっていうのは――ちょっと丁寧に言うとね、「わたしは今、わたしの意識で動いているけど、いや、これからは神に意志を委ねよう」と。「お任せしよう」と。「今、わたしはエゴで動いているけども、じゃなくてすべて神に自分を委ねよう」。これで最初はオッケーです。でも、だんだんこれが進んでくると、ちょっと違うことに気付きます。「あれ?」って思ってきます。つまり「もともとそうじゃん」っていうのが分かってくるんだね(笑)。「わたしは――今はおれの意志で生きてきたけど、神に捧げるぞ!」と思ったけど、そんな、自分が自分の意志で生きてるって思っている段階からすでに神の御手の中にあったんです。つまりここの作業というのは、単純にそれに気づくことだけなんですね。でも最初の段階では、もう一回言うけども、自分の意識が強過ぎるので、最初はだから自分ではなく神に任せるっていうその心のプロセスが必要なんだね。だからそれを、まずはやんなきゃいけない。でもだんだん智慧がひらけてくると、「いや、そもそも、もともとそうだ」と。「わたしがどう思おうが、もともとわたしの人生、わたしの行動、わたしのすべての身・口・意の働きは神の御手の中にある」と。「ただ神がやっているだけなんだ」っていうことに、だんだんと気づき出します。
 これが、前もちょっと言ったけど――この辺の微妙な真理のコツを、前言ったよね? このコツはつまり、自分の意志による、徹底的に教え通り生きようとする心構えね。これと、いや、でもそれを含めて全部神の御手なんだっていう考え方。この二つを同時に持たなきゃいけない。
 同時に持たないと、ちょっとほころびが生じるんですね。心のほころびが生じて、ちょっと道を間違う場合がある。だからそれをガードするために、この二つの発想をどっちも持っていた方がいい。
 もう一回言うよ。「わたしは今、まだまだいろいろけがれがあって、神の教え通りに生きられないから、さあ、自分の意志の力で自分を変えて努力して、百パーセント神の意思通り生きるぞ」っていう能動的な努力の発想。で、もう一つは、「自分が努力する・しない、できる・できないも含めて、実は全部神の御手なんだ」っていう発想。この一見矛盾する二つの発想を同時に持ってください。
 ですから前者の意識で言うと、例えば何かやってできなかったとき、これはまさに努力不足です。努力不足だから、「いや、これはまさにわたしの不徳の致すところだった」と。「努力不足だった」と。「よって努力を倍加して、絶対に成し遂げるぞ」っていう思いが必要なんだね。でも後者の意識で言うと、「できなかったのも含めて全部、あるいはもともとわたしがけがれを持っていたのも、神の意思そのものである」と。この二つの一見相反する心を、どっちも持たなきゃいけません。これがまあコツというかな、実践的なアドバイスですね。

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