自己の明け渡し(1)
「自己の明け渡し」
スワミ・ラーマクリシュナーナンダ
祈り――それによって私たちは、自己中心癖(エゴイズム)を取り除こうとします。
しかし、私たちが祈った後でも、エゴは残ります。
私たちの祈りが神に届いていないのでしょうか?
いいえ、神はすべての場所に遍在されており、私たちの最も微弱な心の嘆きでさえも聴いておられます。
しかし、彼(神)は、私たちに準備ができていないことをご存知なのです。
熱心な祈りを続けることを通じて、私たちは徐々に自分たちの準備を整えていきます。
神が、即座に私たちの準備を整えてくださることはできないのでしょうか?
それはもちろん可能です。
しかし彼は無限の愛を持っておられるため、私たちが実際には自分で自分を支配したいと思っている間は、私たちを悩まそうとせず、やって来られないのです。
私たちが自分自身を全く無価値なものであると悟り、私たちが自分自身を路上の塵よりも価値がないものと感じたときに、私たちは神に次のように告げるのです。
「私は全く自分の人生を支配することができません。
どうぞここへいらして、私の王座をお占めください。私はすべてを汝に捧げます。」
そのときに、神はやって来られ、そしてエゴは去っていきます。
しかしながら、私たちは心を誤魔化してはいけません。
私たちは、偉い人の前では従順だが、自分の家の召使の前では威張り散らす男のように、単なる謙虚なふりをするような者であってはいけません。
私たちは文字通り、自分たちを不可触民(パーリヤ)同然だと思わなくてはなりません。
聖ラーマクリシュナは、そう感じていらっしゃいました。
それゆえ彼は、パーリヤの家の便所掃除をすることができたのです。
彼は“掃除人の掃除人”になることができたのです。
そのような心にのみ、主はやって来られます。
しかし、その感情は、完全に誠実であり、全くの欺瞞や誤魔化しをなくした状態でなくてはなりません。
ソクラテスは、彼自身の無価値さを知っており、それゆえに賢者となったのです。