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「修行の基礎・戒について」(3)

◎善悪の意味

 まあ、だから戒律は、高い世界に至る枠組みなんだね。だから、全ては方便なわけだけど、方便っていうのは、結局、戒律っていうのは別に、ちょっと変な言い方だけど、絶対的真理ではない。
 絶対的真理ではないというのはどういうことかというと、なんていうかな、まあ、方便なんだね。例えばね、戒律って、仏教では戒と律に分かれる。で、厳密にいうと、戒っていうのは、もう普遍的なものなんだよね。普遍的なっていうか、人間として普遍的なもの。人間を超えたらまたちょっと違うけれども。人間としてみんなが守らなければならない。
 で、律っていうのは、その当時のお釈迦様の教団で、まあ、守らなきゃならなかった、そのグループにおける決まり事みたいなもんだね。だから五戒とか十戒が戒だとしたら、例えばここのヨーガ教室では、はい、みなさんこれを守りましょうねと。ここに来た人はこういうことをしちゃいけませんよと。こういうのが律。
 で、これは仏典とか見ると面白くて、最初はこの律ってほとんどなかったんだけど、弟子が変なことばっかりするから、だんだんそのたびごとに増えていったっていう話がある。くだらない律がいっぱいあるんだね。で、中には、悪いことばかりして、もう、律を作ってばっかりいる奴とかもいて(笑)、そいつがなんか、いつも変なことするから、毎回毎回、こういうことをしてはいけませんよ、って律がこうどんどん増えていく。そうやって増えていったんだね、律は。
 まあ、だから律っていうのは、はっきりいうと、普遍的ではない。つまり時代が違うと当然――例えばお釈迦様の時代の律っていっぱいあるんだけど、それを全部現代で適用することはできない。っていうか適用する必要はない。それはあの時代のものだから。
 解説を書いた入菩提行論の中にも、これやってはいけませんよってのがあるけど、解説にも書いたけど、現代には合わないものがあるね。例えば、人を呼ぶときは、腕を上げて呼んではいけない、指を鳴らせって書いてある(笑)。現代の日本でそんなことしたら、バカにしてんのかってなる(笑)。手をあげた方が逆にいいくらい。うん。だからそれは時代背景っていうのがあるから、まあ、普遍的じゃないんだね。
 じゃあ、さっき言ったこの五戒っていうのは普遍的なのかっていうと、少なくともこの輪廻においては普遍的です。しかし輪廻を超えた絶対的真理かっていうと、そうではない。少なくとも我々が人間として生きて、高い世界に至るための実践なんだね。
 だからこういうこと言うと、なんていうかな、まあ皆さんは智慧があるから大丈夫だと思うけども、密教とかになると、この戒律が関係なくなってしまうから。関係なくなるっていうと変だけども、別の戒律が登場してくる。五戒は、条件によっては破ってもいいですよっていう感じ。
 例えばさっき言った酒を飲まないっていうのが一番いい例だけども、なんで酒を飲んじゃいけないかっていうと、さっき言ったように、まず意識がコントロール不能になる。これは、自分で「いや、俺は全然大丈夫ですよ」って思ってても、少なくともその人の最もいい瞑想状態からは、ちょっとぶれるわけです。混沌としてくる。で、ほんとは、わたしが仏教の中心的教えだと思うのは、いつも言っているように念正智なんだけど、常に覚醒した意識を保たなければならないのに、酒を飲んだことによって、心が覚醒からちょっと、なんていうかな、逆に混沌とした状態になってしまう。よって、酒はダメだよと。
 で、もうちょっと現実的に言うと、酒を飲むことによって当然、他の悪行もなしやすくなる。例えば酒を飲んでいないときは聖人なんだけど、酒を飲むことによって、ちょっと怒っちゃったとか、邪淫しちゃったとか、嘘をついちゃったとか、なんか気が大きくなって悪口言っちゃったとか、そういうのも出てくる場合がある。だから酒は飲んじゃいけませんよ、っていうのがあるわけだが、密教、特に熱のヨーガとかの修行においては、酒を飲む場合があるんだね。ミラレーパも酒を飲んで修行が進んだっていう話があるんだけど、あれはなんでかっていうと、まず前提として、今の酒のデメリットはないですよっていう前提がなければならない。
 つまり、意識が完全に覚醒していて、酒をちょっと飲んだくらいでは、意識が全然混沌としませんよ、という状況がまずあって、で、次にその人が、ヨーガ的に言うとクンダリニーヨーガなんだけど、チベットではトゥモっていうんだけど、この我々の下半身から熱を燃やして、生命力を燃やして、それをガーッて上昇させて、アムリタ(不死の甘露)をパーッておろしていく。こういう修行があるわけですが、このシステムが自由にできる人にとっては、なんていうかな、例えば酒を飲んだ場合、その酒のマイナス要因っていうよりも、酒が持っている熱のエネルギーだね、酒を飲んで体が熱くなると。それを利用して、体のいろんな詰まりを取って、悟りに近づくことができるっていう発想だね。
 よって、覚醒していて、酒を飲むことによって混沌とせず、で、そのトゥモとかクンダリニーの修行が進むんだったら、それはどんどん飲んでください(笑)。だから酒を飲むっていう一つの事象っていうか現象には、実は善悪はないんです。それによって悪が引き起こされるならそれは悪ですよと。善が引き起こされるなら善ですよと、いう発想なんです。
 だからこれは確かお釈迦様の、原始仏典の言葉にもあったと思うけど、善悪とは何かと。それを行なうことによって我々が幸せになるもの、それが善であると。それを行なうことによって我々が不幸になるもの、それが悪であると。もうこれだけなんだね、定義は。だから本来的な定義としては、これは善ですよとか、これは悪ですよとか、絶対的な現象っていうのは一切ない。結果的にそれによって幸福になるならそれは善ですねと。不幸になるなら悪ですねと。
 だからそれは条件によって全く違ってくる、実は。しかしあらゆる条件を加味した上で、かなり最大公約数的な、つまり少なくともこの人間界に生きている人たちにとってほとんど当てはまるだろうと思われる悪を避ける教えが、五戒なんです。 
 だからさっき言ったように、ほとんどの人にとっては酒は害であると。だから、酒飲んじゃいけませんよとバシッとあるわけです。他の四つもそうだけどね。だからそれが別の角度から言った、戒律の意味合いだね。

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