至高者を見ることで
ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋
バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」
2006・12
※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。
◎至高者を見ることで
【本文】
『亀が全身を甲羅の中に引っ込めて身を守るように、眼・耳・鼻・舌・身のあらゆる対象から自分の感覚を完全に遮断できる人こそ、完全智識(プラジュニャー)に安住する人と言えるのだ。
禁欲をする人にとって、確かに快楽の対象はなくなるであろうが、それを求める気持ちは依然として残るであろう。しかし至高者を見ることで、その気持ちすら消えてしまうのだ。
クンティー妃の息子(アルジュナ)よ!人の感覚の欲求は抑えることが難しく、まことに強烈であって、時には賢者の心すら奪い去ってしまうことがある。
それ故、肉体のあらゆる感覚を制御し、意識を至高者としての私(最高神としてのクリシュナ)に集中させよ。こうして己の感覚を完全に制御できた時、その人の真理に関する知識は不動のものとなる。』
(松川)はい。これはラーマクリシュナが「その人の心に、ほんのちょっとでも金と女に対する――まあ、これは男に言っているわけだから、女なんだけど――女に対する思いがあるうちは、神は悟れない」と言っていますが、当然この世のさまざまなものに対する感覚的な欲望があるうちは、われわれは――つまりそれは両てんびんは出来ない。この世の快楽にも執着し、神を悟るってことはあり得ない。
よって、修行者っていうのは禁欲に入るわけだけど。ただここで言っていることっていうのは、単純に禁欲した場合、つまり単純に欲望の対象を見ないと。接さないと。このやり方を採った場合、それはその状況ではいいだろうけど、それを求めてる気持ちっていうのは眠っているだけで、実は心の奥にふつふつとあるじゃないかと。だからそういうやり方ではなくて、とにかく神に対して心を向けよと――ここで言っているのは、クリシュナ。自分のことをいっているんだけど、もちろんこれは仏陀でもいい。あるいは自分の好きな聖者でもいい。あるいは自分の生きた師匠でもいい。それに対して一心にただ心を向けなさいと。
これはだから、非常にチベット密教的な発想でもある。徹底的に唯一の対象に対して心を集中させて、それしか自分にはない、みたいな状態になれば、もう性欲とか、食欲とか、その他の感覚的ものっていうのは消え去るんだね。そこに没入するっていうか、そんな低い次元のものっていうのは、何も働かない状態になってしまう。その道を説いてる。これはまさにバクティ・ヨーガの世界です。