法の相続者
あるとき、お釈迦様は、弟子たちにこう言いました。
「弟子たちよ。私は物質的な財産は何も持っていないので、死後、君たちに相続する物質的なものは何もない。
しかし君たちは、私の『法の相続者』にならなければならない。
怠ることなくつとめ励み、この清らかな法の相続者となりなさい。」
この「法の相続者」とは、どういう意味でしょうか?
それは単に、お釈迦様の教えを記憶するとか、経典を残すという意味でしょうか?
もちろんそれも大事なことですが、それだけでは真に「法を相続した」ということにはなりません。
弟子たちが師であるお釈迦様と同じ道を歩み、その法によって心を成熟させ、お釈迦様と同じ心の状態に少しでも近づくこと、それが真に「法を相続した」ということになります。
そしてこの法、サナート・ダルマ(永遠の真理)とは、使えばなくなるような、金銭的な財産とは全く違います。
それは相続者がいる限り、永遠にこの地上に輝き続ける財産なのです。
つまり誰かが「法の相続者」となるということは、その人自身だけの問題ではなく、次の世代の多くの人々にその法の香りを振りまくことができるという、多大なる恩恵を生み出すのです。
「ヨーガ」「仏教」「ヒンドゥー教」などの「サナート・ダルマ」に巡り会った者には、そのような心構えが必要なのではないかと思います。
つまり何らかの形で「サナート・ダルマ」に触れる縁があったということは、それによって自分の心を、カルマを、徹底的に変えていかなければならないんだと。自分の心を、ダルマそのものにしなければならないんだと。一点のけがれもないように、ダルマによって心を薫習しなければならないんだと。その教えに書いてある通りの存在に、自分がならなければならないんだと。
あなたが将来、ヨーガの先生や、ヨーガや仏教のグルやマスターになるのかどうかはあまり関係がありません。そのようなストレートな道を取らなかったとしても、もしヨーガや仏教の真髄を少しなりとも心に身につけた人物がここにいるとしたら、その存在の放つ香りは、無言のうちに、その人の周りの人に何らかの良い影響を与えていくでしょう。そしてその中の何人かは、その真理の香りを相続しようと思う者が出てくるでしょう。
ですからまずは、自分が法の相続者となろう。
神やブッダの道具となろう。
もともと「自分」などはどこにもないのだから、
ただただ自己を滅して、できるだけ純粋に法を相続しよう。
法の相続者としての正しい「誇り」を持ち、
その誇りによって、自己の悪習を本気で打ち砕こう。
そのようにして、あなたが本当にダルマそのものとなるならば、
そこには何の希望も恐怖もなく、
慢心も卑屈さもなく、
ただそこには、神仏の道具となれることの喜びと、
その香りをかいだ人たちの笑顔を見る喜びがあるだろう。