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解説・ナーローの6ヨーガ(4)「心を浄化するプロセス」

◎心を浄化するプロセス

【本文】
その二:心を浄化するプロセス

 初めに、大乗のグルの定義を備えている人に対して、心身において正しく帰依すべきである。

 有暇は大変意義あるものであり、得がたいものである。
 心を浄化することによって、有暇における生き方の核心を獲得したいという大きな望みが生じる。
 その最高の核心は大乗の道に入ることであり、その入る門は菩提心そのものであり、正しい菩提心が心の連続体にあるならば、その大乗者は偽りのない者となる。しかし菩提心が言葉だけとなったならば、その大乗者も言葉だけのものとなる。
 そのように、智慧ある者は、その菩提心の妨げとなるものを順に排除してから、完全な菩提心を生起すべきである。

 まず、「初めに、大乗のグルの定義を備えている人に対して、心身において正しく帰依すべきである」。

 はい、ここもとても重要なところです。大乗のグルの定義って何だろうと。もちろん簡単にいえば、菩薩であるグルっていうことだね。

 つまり例えばさ、山にこもってて、その師匠を訪ねていったら「おれは教えを与える気はない」と。「おれは自分で瞑想して静かに死にたいんだ」と。これはもちろん大乗のグルじゃないね(笑)。極端に言うとね。じゃなくて、「多くの人を救うために、わたしは修行している」と。そのようなグルだね。

 実際これは、実は経典にはいろんな項目があります。つまり大乗のグルっていうのはこれこれこれこれの十項目を備えていてはじめて大乗のグルですよと。さらに密教のグルっていうのは、それプラスこの十項目を備えていてはじめてグルとなりますと。だからあなたが師匠を選ぶ場合はこれに気をつけてくださいっていうふうにしっかりと書かれている。

 しかしですよ――これは問題がある。以前、ある人がわたしのところに来て、こう相談に来た。それは何かというと、自分はね――まあその人は、あるチベットのラマにすごく、何ていうかな……つまりそのラマこそが自分の師匠、約束された自分と縁のある師匠ではないかっていうふうに思い始めていた。でもまだ確信がない。で、わたしにいろいろ聞いてきたわけです。つまりこういう項目があるけども、これはどうなんだろう、この一つ目はどういう意味で、とかいろいろわたしに聞いてきた。

 そこでわたしが言ったのは――そんなものはどうでもいいと。それは真にそういった聖なる師を持てない人のためのものであって、本来の師と弟子の関係っていうのは、項目を見ながら決めるようなもんじゃないんだね。そんなものは超越してる。

 だってそれはそうでしょ。いろんな偉大な過去の聖者の物語見てもそうでしょ。例えば、ね、もうその師匠を一目見ただけで涙があふれるとか、あるいは教えを聞いただけで、よく分かんないけど心が震えるとか。もう目に見えない縁みたいなのがあるんだね。それをもし感じるんだったら、もうそっちの方が優位なんです。

 だから極端なこといえばだよ、なんかすごい、本当にこの人こそはわたしの師だと思える人を見つけたと。でも項目見たら半分くらいしか当てはまってないと(笑)。でもそんな項目は破り捨ててかまわない。自分が本当に心から、この人は素晴らしいと、この人はわたしの偉大な師だって思えるんだったら、もう項目なんて関係ないんだね。

 しかしそういうこと言ってると、世の中にはいろんな悪い人がいっぱいいて、つまり全然資格がないのに威張って慢心によって人を教えようとする人がいる。で、それに騙される人もいる。よって、そういうのを防ぐために一応そういう項目を設けて、ちょっと無智な人たちがね、そういうものに引っかからないように、そういう非常に観念的なものを設けてるんだけど、本質的にはあんまり必要ないんです、そんなことは。やっぱり師と弟子の、もう言葉を超えたつながりみたいなのが、そっちの方が大事だね。

 はい、だから、その定義についてはケースバイケースだけども。あ、この人がわたしの本当のグルであって、しかも偉大な大乗の菩薩であると。そのように確信したならば、さっきも言ったように、心身によって正しく帰依をしなきゃいけないと。それがスタートなんだね。「初めに」って書いてあるように、まずその帰依の実践から始めますと。

◎得がたき有暇

 はい、そして次に、「有暇は大変意義あるものであり、得がたいものである」。

 有暇っていうのはこれは何度も学んでるからはしょるけども、つまりわれわれが人間として生まれ、修行ができるっていう条件がいっぱいあるわけだね。これは何度も言ったけどね。もういろんな条件を乗り越えてわれわれは今、この人間の体を得て、いろんなものに邪魔されることなく修行ができるチャンスがある。これは大変得がたいんだと。

 そして、心を浄化することによってこの得がたいチャンス、この類まれな人生の中での生き方の核心を獲得したいという大きな望みが生じる。

 その核心の、「その最高の核心は大乗の道に入ることであり、その入る門は菩提心そのものであり、正しい菩提心が心の連続体にあるならば、その大乗者は偽りのない者となる。しかし菩提心が言葉だけとなったならば、その大乗者も言葉だけのものとなる」。

 ちょっとこれは分かりにくい書き方だけど、つまりそういうことをしっかりと考えなさいということだね。つまり、本当にわたしは得がたい――だからこれは『入菩提行論』とかをしっかり読むといいと思うけど――得がたい、本当に類まれなチャンスを得たと。さあ、このチャンスをどのように使ったら、わたしは最も有効的にチャンスを生かしたことになるんだろうか。それはまさに大乗の道に入ることだと。そしてその門――つまり核心的な、何をもって大乗の道に入ったといえるのか――それは菩提心だと。正しい菩提心が、本当にその心の連続体、つまり心のわれわれの習性の中に根付かれるならば、それは真の、偽りのない大乗といえる。しかし、菩提心とか慈悲とか言いつつ、それが全く心に根付いていなかったら、それは偽りの大乗者になってしまう。よって、その大乗の菩提心を心に根付かせなきゃいけないんだけど、その前に、その妨げとなるものがいっぱいある。それを排除しなきゃいけない。排除していって、その菩提心を根付かせていくっていうことだね。

 例えば簡単にいうとさ、当然怒りとか持ってちゃ駄目だよね。嫌悪が強かったら、人々を愛せない。よって嫌悪を捨てる必要がある。あるいは執着が強かったら偏った見方になっちゃうから、平等にみんなを愛することができない。よって執着も捨てなきゃいけないってことだね。

 もちろんその全部の煩悩を捨てることは最初からはできないわけだけど、少なくとも最初の段階でその理想として菩提心っていうのがあって、菩提心を自分の中にしっかりと根付かせるために、その邪魔となっているものを自分から捨てなきゃいけない。

 あ、おれは慢心があるなと。慢心があったら菩提心なんて身につくわけがないじゃないかと。よし、今日からわたしは慢心を捨てましょうと。わたしは嫌悪があるなと。なんだかんだ不満ばっか持ってると。こんなんで菩提心が身につくわけがないじゃないかと。捨てましょうと。こういう感じで自分の中のけがれを捨てる努力をしていって、で、現実的に、つまり理想ではなくて、本当に菩提心が心に根付くための努力をするんだね。

 だから逆にいうと、最初は根付いてなくて当たり前。例えばみなさんの中で「いやあ、わたしは本当に慈悲がないんです」っていう人がいるかもしれないけど、それは当たり前。そこからスタートするんだね。

 じゃあなぜ慈悲が身につかないんだろう。それはさっきから言ってる、いろんなエゴがあるからだと。それを少しずつ取り除けばいいじゃないかと。で、逆に菩提心をしっかり学んで、あるいは瞑想して、あるいは日々の実践でそういった慈悲の実践をしながら菩提心を根付かせてけばいいじゃないかと。これがプロセスだね。

 だからちょっとこの辺は書き方としては分かりにくいけど、ここまでのことをまとめると、しっかりとまず師匠を見つけて、師に帰依しなさいと。そして自分の与えられたこの人間の生、真理にめぐり合ったこの瞬間というのを、稀なチャンスであると考え、さあ、いかにこれを生かそうかと考えなさいと。それは自分が菩薩となり、大乗の道に入り、大乗の修行をすることこそが、この人生を生かしたことになるんだと。で、その大きなポイントは何かと。それは菩提心がいかに心に根付いてるかどうかだと。よって具体的に菩提心を根付かせるために、その邪魔である、自分の中のさまざなまけがれを日々少しずつ取り除いていきなさいということだね。プロセスとしてはね。

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