解説「自己の明け渡しのヨーガ」(5)

はい。それからまあ、そのほかのやつはケースバイケースなんだけど、まず「わたしは汝である、主よ」ってやつね。これもだめだと。これは分かるかもしれませんが、いわゆるジュニャーナヨーガとか、あるいはヴェーダーンタの道なんですね。つまり、例えばさ、そういうタイプのヨーガでは――ちょっと前のアムリタチャンネルの質問でもそういうのあったかもしれないけど、つまり例えば「ソーハム」とか、あるいはこの間質問であったのは、「オーム・ソーハム・シヴォーハム」とか、いくつかのマントラがあって。あるいは言葉があって。で、それらはすべて「われは彼なり」、あるいは「われは汝なり」っていう考え方なんですね。つまり主、シヴァとか至高者を置いて、あるいはブラフマンでもいいけど、絶対なる宇宙の主とわたしは一つであると。
これはね、もちろんある観点からはそのとおりなんですよ。この世には主しかいらっしゃらないから。主しかいらっしゃらないってことは自分もそうなわけですから。でもバクタっていうかバクティの道はそれを好まないんだね。その道は取らないんですね。おれは神だっていう道は取らない。常に、主に仕える、わたしは神に仕える者ですと。あるいはわたしは神のしもべであり、子供であり、信者ですっていう道を取るんですね。だからこれも勘違いしちゃいけませんよと。明け渡しといっても――実際にはさ、明け渡すことによって主と一つになるから、その意味では一つになるんだけど。でも、アドブターナンダとかも言ってるように――なんていうかな、結構さ、ヨーガをやる人はそれを好む人が多いんですね。わたしは神であると。うん。でも、純粋な心でそれができればいいんだけど、多くの場合、ここにプライドが入っちゃうんですね。だからわれわれにはプライドがあったり、あるいはエゴの強さがあるからさ、「わたしはすべてを主に明け渡した主のしもべです」ってやるよりは、「われはシヴァなり」って言った方が(笑)、なんかかっこいい感じがするし、「自分」っていうものを持ったまま、なんかいける感じがするから、そういうのが好まれるんだけど、それはエゴの欺瞞であってね。ほんとに「われは神なり」って思えてんのかと。じゃなくてエゴを持ったまま、エゴが「われは神なり」って言ってるだけだから、普通はね。
ただ、このジュニャーナとかヴェーダーンタの道を中心に進むならば、それはそれでいいんですけどね。難しい道ですけどね。だから少なくともこの明け渡し、バクティの道においてはそれは駄目だと。
はい。それから、「もし、知性が『わたしは偉大な信者である』と言うのならば」
――はい。これはさ、もちろんわれわれは偉大な信者にならなきゃいけないんですよ。だからこれも明け渡しっていう意味で言うならば、「わたしは」みたいな発想も全部捨てなきゃいけない。すべて神がやってらっしゃると。つまり、おれは偉大な信者なんだ、おれは偉大な帰依を持ってるんだ――これもね、ケースバイケースでは別に悪くはないんだよ。例えばここに、ちょっと卑屈な人とか、心が萎えてる人がいたら、こういう雄々しい「われは偉大な信者なり」っていう思ってもかまわないんですよ。それはケースバイケースなんだけど。でもここでは原則として、明け渡しっていうのはそういうものでもない。うん。なんていうかな、わたしのことを一切決めてらっしゃるっていうか、操作してらっしゃるのは神だから。そこに「わたしは偉大な信者だ」みたいな発想さえ入らない。
はい。そして、「わたしはシッディ(成就)に到達しなければならない」。
はい。これも、実際はオッケーなんですよ。つまりこれは、お釈迦様の教えでは欲如意足とかいうんだけど。つまり、解脱したい――シッディってのは成就、解脱といってもいいわけだけど、わたしは解脱するぞ、解脱しなきゃいけないんだと。解脱したいんだ。この思いがまずスタートなんだっていう教えがある。つまりそのような聖なる欲求は持たなきゃいけないんだと。でもこれも、もちろんオーソドックスな修行としてはそれでいいんだけど。でもバクティのこの明け渡しの道においては、それさえも、変な話ね、おまかせなんです。つまり神の道具となって、そのために、神のお手伝いをするために解脱することが最善だと思うなら神は解脱させてくれるでしょうと。じゃなくて今生、解脱しないで働くことが神のご意思ならば、それはおまかせいたしますと。
もちろん普通は、解脱っていう言葉の定義にもよるけども、そういう明け渡しの道とか進んでたらさ、ものすごい聖者になるからね(笑)。ものすごい聖者になるから、偉大な魂にはなっていくんだけど。解脱っていう言葉の意味にもよるけど。解脱とか成就の意味ね。つまりこの輪廻の鎖を完全に断ってニルヴァーナに入れる状態が、一般的には解脱だから。それはもちろん修行してればそうなっていくんだけど、でもそれを神が与えるか与えないか――例えばいろんリーラーの物語であるよね。ラーマクリシュナが『ラーマクリシュナの福音』を書いたMのことをいろいろ言ってる中にもそういうのあるけどね。つまり、神はそのような賢者に、わざとマーヤーを掛けとくんだと。そうしないと、解脱しちゃうと――つまり彼が、まあこの場合Mのことを言ってるわけだけど、Mが『ラーマクリシュナの福音』を書けないからね(笑)。ラーマクリシュナが亡くなったあとにすぐMも解脱しちゃって(笑)、もうこの世はおさらばとかなっちゃったら、彼の使命は達成されない。だからしばらくマーヤーの帳(とばり)を掛けとくんだと。こういう感じで、もしかすると神はある信者っていうか修行者に、あえて解脱させずに、最後のマーヤー、煩悩を残したまま引っ張る可能性もある。それも含めておまかせなんだね。うん。
だから、「明け渡しますから解脱させてください!」じゃないんです(笑)。これ変でしょ、これ(笑)。これは聖なるっていうか、高度な打算。高度なギブアンドテイクが生じてるよね。高度なギブアンドテイクも駄目なんです。「明け渡しますから、菩薩にしてください」とか「バクタにしてください」。――でもこれは悪くはないんですよ、これも実は。でも真の明け渡しの場合は、それさえも明け渡す。全部おまかせ。極端に言えば、もう超、明け渡したことによって、神の采配によってね、例えば皆さんがラーヴァナとかさ(笑)、そういう悪役をやらされる可能性もあるよ。でもおまかせなんだよ。うん。かっこいい役やりたかったけど、なんか(笑)、駄目な役やらされる可能性もある。でもそれも含めて明け渡しなんです。全部おまかせですよと。
だからちょっと戻るけども、一般的には、「さあ、解脱するぞ、成就するぞ」、この気持ちは必要なんだけど、この明け渡しの道においては、それさえも明け渡す。解脱するかどうかも含めて全部おまかせと。
だから輪廻転生とかもそうですよね。普通は、普通の修行では、輪廻を超えるためにこういうことをしっかりと修行しましょうってなるんだけど、来世さえもおまかせだから。もちろんそこでおまかせできてるかどうかが、まあ最大のポイントなんだけどね。うん。修行せずおまかせもしてなかったらただの、なんか(笑)、悪いカルマで転生しちゃうだけだから。
だからまあカイラスの場合、いつも言ってるけども、皆さんもご存じのように、総合的に修行をやらせるわけだね。うん。明け渡しっていったってさ、例えばギリシュみたいに、なんの修行もせず明け渡しだけでいけるかっていったら――つまりギリシュほど純粋だったらいけるかもしれないね。でもやはり時代も違うし、なかなか難しいところもあると。だから明け渡しとかそういう高度な教えは中心に置きつつ、われわれはさまざまな修行もしなきゃいけないと。
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