解説「自己の明け渡しのヨーガ」(4)

「明け渡しとは、強烈な愛と信仰を含んでいる。」
はい。これも分かりますよね。バクティというのは、なんていうか、冷たい合理主義的なものではない。さっき言ったように単純に書類を書いて明け渡しましたっていうだけではなくて、同時にそれは神への強烈な、まず信ね、信仰。そして同時に愛、つまり神に対する強烈な愛。そして、信じる気持ち、バクティの気持ちとともに、もちろん明け渡してるんだっていうことですね。
「明け渡しは完全でなければならず、『自分のもの』という要素を一切持ってはならない。」
はい。これはこのあとの話もつながるけども、実際はもちろん百ゼロではないよ。もちろん完全な明け渡しは百じゃなきゃいけないんだけど、実際にはもちろん段階的に「どれくらい明け渡してますか?」っていうのはあるよね。ただそこでもちろん満足してはいけない。例えば五十パーセント明け渡したとしたら、それはそれですごいですよ。皆さんが自分のエゴとかあらゆるものを五十パーセントでも神に明け渡したとしたらそれはすごいけども、でもそこで満足してはいけない。当然目指すは百ゼロなわけですね。百パーセント神に明け渡さなきゃいけない。自分のものという要素、あるいは自分という要素、これを一切残しちゃいけないんだと。
「存在全体、心、知性、チッタ(意識)、そしてエゴイズムを、主に明け渡さなければならない。」
はい。まあ、この辺の言い方は、ヨーガ的な、つまりヒンドゥー的な人間論にものっとってるんだろうけど、つまりわれわが普段いろいろ考えてる心。知性っていうのは、一般的な知性といってもいいけども、ヨーガ的にいうとブッティっていうね、理性的なわれわれの心の働き。それから非常に深い心であるチッタ。そしてわれわれのこの世における、「わたし意識」の根本にあるエゴイズム。そしてそれら全体をひっくるめた存在全体ね。この一切を主に明け渡さなければいけませんと。
「欲望とエゴイズムは、自己の明け渡しにとっての二つの大きな障害である。」
これはもちろんそうですよね。エゴイズム、わたしという意識、そしてそこから生じる欲望ね。
「もし、心が『わたしは汝である、主よ』と言うのならば――もし、エゴが『わたしは最高裁判官にならなければならない』と言うのならば――もし、知性が『わたしは偉大な信者である』と言うのならば――もし、チッタ(意識)が『わたしはシッディ(成就)に到達しなくてはならない』と言うのであれば――これは完全なる無条件の明け渡しにはならない。これは内なる支配者であり、目撃者である主を欺いているだけである。」
はい。これは今出てきた心、それからエゴ、そして知性、そしてチッタ(意識)っていうものに関しての話なんだけど、ただこれは、見たら分かるかもしれないけど、このバクティヨーガの、特にこの明け渡しのヨーガっていう観点からだと駄目だっていう話なんだけど。ここに書いてあることのいくつかは、別のヨーガではオッケーな場合もあるんだね。でもこのヨーガでは駄目ですよと。
まず絶対的に駄目なのは、エゴの部分ね。エゴはもちろんエゴ自体が駄目なんだけど。エゴが「わたしは最高裁判官にならなければならない」っていう意識ね。これを持ってしまったら、これは駄目ですよと。無条件の明け渡しにならず主を欺いてるだけだと。
これ、分かりますよね? つまり自分の中で、最高裁判官、つまり最終的な判決、ジャッジを下すのはおれであるっていう意識をエゴが持ってる。これはもちろんさ、みんな持ってるんですよ。うん。みんな、わたしはそれを持ってるって気付かないほど、皆さんはエゴがもう主、つまり自分の中のメインの存在にいるからね。だからそれは逆に言うと気付かなきゃいけない。常にわたしは自分ですべてを判断してる。自分で良し悪しを決め、自分で何をするしないを決めていると。だから逆に言うと、それを、その座を主に明け渡さなきゃいけないわけですけど。しかしエゴがわたしは最高裁判官であるっていう意識を持ってるならば、それはまあ、明け渡しにはなりませんよ。
-
前の記事
解説「自己の明け渡しのヨーガ」(3)
