解説「菩薩の生き方」第二十二回(2)

はい。で、説明も――もともと、いつも言ってるようにこの『菩薩の生き方』っていうのは『入菩提行論』に対する解説なので。こういう勉強会は解説の解説になっちゃうので、あんまり書いてあること以上のことは、そんなに重ねて言うことはないんですけども、ちょっと見ていくと、そうだね、後半の部分。「これは真実ではありますが、我々の心には『ずるい心』が潜んでいるので、それはまた別の意味で気をつけなければなりません」云々ってあるけども、これはまあ布施だけじゃないけども、一切は心ですよと。ね。だから布施もね、心ですよっていうわけだけど、じゃあ例えばここに、「いやあ、わたしは貧しいからあまり布施できないが、ほんとに心を込めて布施してます」という人がいたとして、それはほんとなのかと。ね。ほんとだったらもちろんそれは最大の効果を生みます。でもほんとじゃなかったら、つまり実際には物惜しみの心や貪りの心があって、あるいは供養の気持ちが少なくて布施してたら、それは実際には効果を生まないっていうことになるよね。
これもいろんな話があるけど、例えばミラレーパのまあ一番弟子であるガンポパが、一番最初にミラレーパのところに弟子入りしに行ったときに、もちろんガンポパはもう予言されたミラレーパの一番弟子だったので、約束された弟子っていう感じでミラレーパは祝福するわけだけどね。このときの話は――ちょっと今のテーマと関係ないけど、面白いのでちょっと言うと(笑)、一番最初、ガンポパが――ちょっと長くなるので端折って言うと――ガンポパは、真面目なっていうか、固い、カダム派っていう、戒律とか教え、教学とかを中心とした派のお坊さんだったわけですね。非常に真面目な優秀なお坊さんだったんだけど、あるときから変な夢を見るようになったと。変な夢っていうのは、山の中の緑色の老人。ね(笑)。もうみんなならわかると思うけど、ミラレーパなんだけど(笑)。山の中に住む緑色の老人の夢を見るようになったと。ね。これはいったいなんなんだと。で、修行仲間とか先輩に聞いてもみんなわからないと。それどころか、「いや、そんなの悪魔だから放っとけ」とかね、いろいろいい加減なことばっかり言ってると。「いったいこれは誰なんだ?」と。そしたらあるとき、通りかかったところで三人の老人が噂話をしてると。それはミラレーパの噂話だったんだね。「あの山にミラレーパっていう偉大な聖者がいるらしい」と。で、それを聞いてガンポパは、「ああ、その方がわたしの夢に出てきた方に違いない」と確信するんだね。で、その老人のうちの一人に案内してもらって山に向かうわけだけど。その向かってる途中にその老人はどっか行っちゃうんですけども。この老人もミラレーパの化身だったんだけどね。で、そういう感じでガンポパが、ミラレーパが住んでる山の中に旅をするわけだけど、ミラレーパはそのときちょうど弟子たちと在家信者たちに山の中で法を説いていて。で、そのときに、「もうすぐ約束された偉大なるわたしの弟子がやって来る」って言うんだね。そして、「その彼を一番最初にもてなした者は大変な功徳を積むであろう」って言うんですね。
で、ちょうど、偶然っていうかな、ガンポパがそのミラレーパのもとに到着する前に、あるおばあさんの家に立ち寄って、ちょっと疲れたので飲み物を下さいませんかと。そしたらそのおばあさんが直観的に、「あ、これがミラレーパが言っていた約束された高弟である」と気付いた。そこでその話をガンポパにして、大変なごちそうでもてなすわけですね。で、それはいいんだけど、そのとき、それを聞いたガンポパが――ガンポパはもちろんもともとは非常に謙虚で優秀なお坊さんだったんだけど、そういうことを聞いちゃったので、ちょっと慢心が出ちゃったんですね。「おれはなんか、約束された偉大なる、あの大聖者の高弟なんだろうか」と。で、ちょっと慢心が出ちゃった。で、ミラレーパはそれを神通力で把握して、で、ついにガンポパがミラレーパのところにやって来たんだけど、ミラレーパは会うのを拒否するんです。「ちょっと会えない」と。で、ガンポパはそれで二週間ミラレーパに会ってもらえずに、しばらくその山の中で暮らすことになるんだね。つまりこれは、ガンポパがそのおばあさんの話を聞いちゃったがゆえに、慢心に陥っちゃって、で、その慢心をつぶさないと、まあ弟子として迎え入れられないと。よって二週間放っといたと。
で、二週間経ってやっとガンポパがまた謙虚な状態を取り戻したときに弟子入りを許したわけだけど。で、そのときにガンポパは、高価なお茶をミラレーパに供物として供養するんだね。で、そこでミラレーパはそれを喜んで、「よし、じゃあみんなにお茶を配ろう」って言って、お茶をポットに入れてこう分けさせるんだけど、そのときにポットの中に小便をしたって書いてあるんだね(笑)。「ミラレーパはそこに小便をし、そのお茶をとてつもなく美味なるものとした」って書いてあるんだけど(笑)。まあそれはいいとして(笑)。で、そのあと今度はミラレーパが、じゃあそのお返しにっていうことで、歓迎のしるしにっていって酒を出すんですね。当然、まあ密教においては酒を飲んだりもするけども、一般的には仏教においては酒は禁止されてると。戒律違反であると。で、特にガンポパは非常に真面目なカダム派のお坊さんだったので、もう絶対駄目と。そういうのは。まあチベットっていろんな派があってさ、もう適当な修行者とかはもう酒とか普通に飲んでるみたいだけども、厳格なところはもう絶対それは厳格にすると。で、ガンポパはそういうタイプの人だったので、酒を飲むなんてとんでもないと。しかもまあ、百歩譲ってグルと弟子の一対一の空間だったらいいけども、そこには多くのいろんな修行者とか信者とかいっぱいいたわけですね。その中で――まあつまり自分は清らかな出家僧であるっていうすごく観念があったから、これはちょっと飲むのはきついっていう気持ちがあったわけだけど。でもこの素晴らしい偉大な聖者ミラレーパからの勧めなので、この縁をけがしてはいけないと思って、飲み干すんですね。で、そこでミラレーパはそれを見て大変喜んだ。「ああ、これはわたしとの偉大な縁を示してる」と。
これがガンポパの話なんだけど。で、このときに、まあガンポパだけじゃなくて一緒に弟子入りっていうか、教えを懇願しに来た別のお坊さんもいたんですね。で、この別の僧が、「わたしにもどうか聖なる教えをお与えください」って言うんですね。そしたらミラレーパが、「おまえは、じゃあその教えを受けるためにどんな供物を持ってきたか?」って言うんだね。そしたらその僧が言うには、「いや、わたしはとても貧しくて、供物を用意できませんでした」と。「申し訳ありません」と。「ですから供物を持って来られませんでしたが、どうかわたしに教えをお与えください」と。そしたらミラレーパが言うには、「あんなにも多くの黄金を持ってるくせに、何も持っていないって言うのは恥ずかしいことだ」と。「結局のところ、本当の意味での信や帰依のない者に教えとかイニシエーションを与えるのは時間の無駄である」と。「あなたは帰って今までの生活を続けた方が良い」と言うんだね。つまりミラレーパは神通力で彼のことを読み取ってたわけですね。その彼は、実際には家に帰ったら黄金を持ってると(笑)。しかし物惜しみによって、この偉大なグルに対して何も供養できなかった。
ちょっと話が広がっちゃったけども、実際に例えば、なんていうかな、心において、「供養の気持ちがあるからわたしは何も布施しなくていいんだ」っていうのは、なんていうかな、心の欺瞞性でそういうことを言ってた場合は、それはもちろんなんの意味もない。意味わかりますよね。例えばマンダラ供養の説明とかでもよくしたけども、マンダラ供養も、何度か言ってるけど、あのマンダラ供養っていうのは、実際には皆さんのほんとの供養の気持ちが純粋であれば、あれだけで大変な徳を積めます。マンダラ供養はさ、つまり、別に何も起きてないでしょ(笑)。マンダラの上でお米とかをグルグルやってるだけですよね。何も誰かにあげてるわけではないし、あるいは何か現象が変わってるわけではない。しかしあれをやるだけで、もし心がほんとに純粋に供養の気持ちがあったら、大変な徳が積めます。つまり皆さんが多くの財産や富を、グルや聖者方にたくさん布施したのと同じような徳が積めます。それはなぜかというと、すべては心だからね。
で、もともとあのマンダラ供養自体が――あれは多分、その原型みたいなのはインドにあったかもしれないけど、ああいうかたちでマンダラ供養が完成したのは、おそらくチベットでだと思うんだね。インドでももちろんその原型はあったかもしれないけども、そういった昔のインド、あるいはチベットの修行者は、まあもちろんお金持ちの人もいたかもしれないけど、大変貧しい人が多かった。で、ほんとは、もし財産があれば、当然もうすべてを――何度も言ってるあのゴクパみたいにね。ゴクパっていうのはマルパの弟子だけど、自分の弟子もいっぱいいて、信者もいっぱいいて、みんなから多くの布施をされて、大変な財産を持ってたわけだけど、久しぶりにマルパに会いに行くっていうときにその全財産を布施しちゃうんだね。もう何十年かわかんないけども、長い時をかけて築いた全財産。しかもそれは、信者からお布施されたお金とか高価な宝石とかだけじゃなくて、家財道具も全部持っていったっていうんだね。「わたしのものはすべてあなたのものです」。――これも言葉ではよく言うでしょ。「グルよ」と。「わたしのものはすべてあなたのものです」と。言葉ではよく言うけども、実際はそうなのかと。で、このゴクパはそれを文字どおりやったわけだね。家財道具も含めて全部、久しぶりにお会いするグルのもとに持っていって全部布施したと。この気持ちがあれば、つまりもしわたしに何か財産があったら全部布施するだろう、っていう気持ちがあって、でもどうしても今は貧しくて何もないからできないと。この気持ちがある人がマンダラ供養をやったら、素晴らしい徳を積めます。しかし、「いや、わたしはほんとに供養の気持ちがあるんです。だからマンダラ供養で徳を積むんです」って言ってる人が、実際そういう環境になったときにね、例えば「はい、今こそグルやブッダに布施をするときです、あなたはこれだけのものがあるでしょう」と。布施をしなきゃいけないっていうときになったときにできないとしたら、それは――できないとしたらっていうかできないような心の状態だったら、当然マンダラ供養においても実際はその効果はあまりなかったっていうことになるよね。
もちろんマンダラ供養自体が、そのような供養の気持ちを培っていく修行でもあるから、そういう意味ではもちろんメリットはあるんだけど、実際そこで徳を積めたとは言えないっていうことになる。
だから全部そうですけどね。布施の話だけじゃなくて、すべては心であると。まあ、「すべては心である」っていうのはよく聞く話ですよね。すべては心。心が大事なんだと。心が問題なんだと。それはそうなんだが、ほんとにできてるのかと。つまりすべては心っていった場合、わかりにくいですよね。わかりにくい。でも現象はわかりやすいでしょ。よって現象から普通は入るんです。すべては心だから、例えば布施にしても、別に布施っていう行為をしなくても別にいいんですけども、しかしそれを言っていたら、もし自分の中に欺瞞性がある場合に、なんていうかな、まあ全く徳も積めず、あるいは聖なるものとの縁もできずに終わってしまう。よって、実際には現象というのは二の次なんだけども、その現象を逆に利用して、例えば布施や供養だったら現実的にしっかりと供養すると。布施をすると。あるいはさまざまな修行もそうですけども、一切は心なんだが、でも形から入らなきゃいけない。
形からしっかり入って、その形に――つまりすべては心といって、その心が完全に達成されていたら、当然、形的なものっていうのは楽々できるはずなんだね。つまりここにある修行者がいて、もう供養の気持ち達成してますよと。達成してますよっていう人に、もし、ある供養の環境が与えられたら、もう楽々。ね。もう全くなんの躊躇もなく、さっきのゴクパみたいに、ポーンって布施できる。例えばじゃあわかりやすく言うと、もうほんとにわたしは布施したくて供養したくてたまらないと。グルにも、あるいは衆生にも、貧しい世界の衆生も早く布施で救いたいし、あるいはグルにもほんとに全力で布施したい気持ちは山々なんだが、しかしわたしは今ほんとに貧しいので、ほんとに少しの布施しかできないんです――ほんとにこれがほんとだったらそれは素晴らしい。でも例えばそこに、そうだね、例えば宝くじがポーンと当たったとか、あるいは遺産がゴーッと入ってきたとかいうときに、「はい、じゃあどうしますか?」と。ね(笑)。「ちょっとこれだけ取っておきます」とかね。あるいは全然布施できないとかね。うん。そうしたらそれはなんだったっていうことになるよね。つまりそれは、そのとき布施できなかったことが問題なんじゃなくて、意味わかると思うけど――例えばじゃあこの人は、今の仮の話としてね、今のこの仮の話があって、やっとこの人はわかるよね。「わたしは今まで供養と布施の心の塊だと思っていたが、実際にバーンって富が来たら、全然できなかった」と。「ああ、ということはわたしは全然布施の心がなかった」と。「まだ貪りでいっぱいだった」と。「よし、やり直さなきゃいけない」って頑張ることができるよね。でもそれがなかったらどうします? 「おれは布施の塊だ」とか「供養の気持ちは完成してる」と思ってる人が、そのようなことを試される環境もなく一生を終えたら、結局勘違いのまま一生を終えて、結局その自分の貪りや、あるいはその供養の気持ちのなさを修正することができずに、まあ例えば死んで餓鬼の世界に落ちてしまうかもしれない。これは非常に怖いことですよね。
よって、繰り返すけど、ここにも書いてあるように、自分の欺瞞性によって――すべては心っていうのは真実なんですけども、自分の欺瞞性によって、自分の未熟さが見極められないことがあると。よって、すべては心なんだけども、しっかりと現実的な行為も頑張って、あらゆる修行の要素を確定させていかなきゃいけない。
はい。だから繰り返すけど、当然この背景っていうか、その中心に来るのは、皆さんの場合、トンレンと考えていいね。トンレンね。トンレンの、さっきから言ってる、特にトンの部分ですね。つまり普段から例えばトンレンの瞑想を行ない、さあ、わたしの幸福はみんなに行きなさいと。あの「Maitri」の歌にもあるように「わたしの幸福はすべて衆生のもとへ」と。この気持ちの完成こそが布施の完成といっていい。で、その気持ちが――もちろんそれが上に向かった場合は「わたしの一切はグルのものです。わたしの一切は至高者のものです。すべて捧げます」と。この気持ちの完成ね。この気持ちをいかに完成させるか。この心をいかに完成させるかと。それに日々心を注がなきゃいけない。
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