解説「菩薩の生き方」第十七回(6)

地・水・火・風・薬草及び樹木を用いるように、常に衆生がすべて欲するままに妨げなく(我を)用いる者となりますように。
はい。ここ、非常に大事ですね。つまり、ここはまさに『入菩提行論』の世界です。ね。分かりますよね?
「地・水・火・風・薬草及び樹木を用いるように、常に衆生がすべて欲するままに妨げなく(我を)用いる者となりますように。」
意味分かりますよね? つまり地・水・火・風――まずここで地・水・火・風って言ってるのは、つまりこの世の物理的自然の全現象、全物質っていうことです。つまり例えば大地――もちろんこのコップとかもそうだけど、地元素ね。あるいは泉から溢れる水、川の水、水元素と。あるいは炎と。で、風は生命エネルギーと。これ、つまり誰も遠慮しませんよね。つまりこの、例えば自然のものには遠慮しないよね。例えばどこかに行きたいときに大地の上を歩かなきゃいけないけど、歩いていいのだろうか、大地様と(笑)。大地さんに悪いと。大地さんにちょっと断り入れないとちょっとまずいなと、ちょっと恐縮しつつ、「あ、すみません、あ、すみません、すみません」――こんな人はいない。水もそうでしょ? 水が泉から溢れてると。「飲んでいいの? 飲んでいいのかな?」と。山の泉から溢れてると。「ちょっと恐縮しちゃうな」と、こういう人いないよね。火もそうですよね。つまりみんな普通に、当たり前のように、喉が乾いたら泉の水を飲み、どこかに行くときは大地を踏みつけて歩き、料理を作るときは当たり前のように火を使い、なんの遠慮もなく、そしてなんの妨げもない。妨げもないっていうのは、拒否がない。水を例えば水道からジャーッて飲もうとしたらヒューって逃げて行って(笑)。「おれの口に入りたくないのか」と。「そんな汚い口に入りたくない」と(笑)。こんなことはないよね。それはあり得ないと。つまり、水も火も地も拒否しない。好きなように、われわれは当たり前のように使ってる。
で、薬草、樹木もそうですね。で、これも、もちろん人の家だったら別だけど、山に生えてる薬草は、これも誰にも遠慮する必要はないと。必要であれば当然採って当たり前っていう感覚で採ってますよね。で、木も――もちろんあまり伐採し過ぎると問題ですけども、ちょっと例えば木が必要になって木を切ったりとか、あるいは、そうだな、ちょっと木陰で休むとかね、あるいは樹に横たわるとかさ、それ、気を使わないでしょ。「ちょっと暑いから木陰に入りたいけども、入っていいかな……ちょっとなあ、木が怒ったらどうしよう」とかね、思わない。で、実際拒否もしないよね。入ろうとしたらパッと枝をあげて、「涼しくしてやんないよ」とかね(笑)、そんな木はいない。うん。
で、ここまでいったら分かるよね? つまり、それくらい衆生は遠慮なくそれらを使い、そして実際に役に立ってると。で、「わたしのこともみんな、そのように使ってほしい」っていう願いです。
これ、『入菩提行論』にそういうのがあるよね。つまり、わたしはすべてを衆生に捧げたと。この身を捧げたんだから、わたしのこの身をどう使おうが衆生の勝手であると。それに対してわたしは何を言う権利もないんだと。だって願いにおいては、菩薩の願いでよくそういうことを言うわけだね。「この身を衆生に捧げます」と。おまえ、言ったな、と(笑)。菩薩の発願をしたなと。菩薩の発願イコール、「この身を衆生に捧げます」と。捧げたんだからもう文句言えないよね。捧げたんだから、例えばそれが、なんていうかな、正当的でなくても文句言えないんだよ。捧げたからさ、例えば、そうだな、解脱のために使うならいいとかね、そういう文句も駄目ですよ。例えば自分がかっこ良くね、みんなを救済すると。例えば夜通し相手に法を説くと。あるいはもちろん、この身を使っていろいろ走り回ってみんなを救済すると。体がぼろぼろになると。これはかっこいいし、素晴らしいことですよね。これはまあ正当的な、素晴らしい菩薩の「身を捧げた」っていうイメージですけど。そうじゃなくて、全然関係なく誰かがやってきてパチッて自分を殴ると。あるいは極論すれば、誰かがやってきて石を投げてきて自分が血だらけになると。ある人は、「ちょっとストレスがたまった」とか言って自分を足蹴にして、ひっくり返して踏みつけるかもしれない。こういうことをやられても、菩薩としては「ああ、オッケー、オッケー」と。だって捧げたんだから。この身を救済だけに使ってって言う権利もないんだね。好きなようにしてくださいと。
もちろん実際にはさ、現実的には皆さん、そういう人が現われたとしたら、当然相手に悪業積ませないようにいろいろ考えなきゃいけないけども、でもベースの気持ちとしてはそれくらいの気持ちを持たなきゃいけないんです。ベースの気持ちとしては、誰かがやってきて全く不当に一時間ぐらい自分を踏みつけたとしても――だってもう相手にあげちゃってるから。もうだから、なんていうか、自分の権利はここにはないんですよと。もしここに自分を一時間踏みつけて幸せになる人がいたならば、オッケーと。ね(笑)。そこになんの自分の条件も入り込まない。だからここにおいて、そうですね、条件項目ないんですよ。条件項目っていうのは、「はい、じゃあ衆生に捧げましょう」と。しかし――例えばアメリカの契約みたいにね。例えばアメリカで、メジャーリーグとかと契約するとすごい項目あるっていうからね。トレードはできないとかいろいろ(笑)、二軍に落とせない、とかいろいろあると。そういう項目が一切ないと。捧げましたと。「ただしこれは駄目です」とか一切ないと。衆生の好きなようにしてくれと。
で、繰り返すけども、もちろん実際にはこの世において時間は限られてるし、みんながやらなきゃいけないこともいっぱいあるわけだから、実際には効率良くっていうと変ですけども、この生において、できるだけ、現実的にみんなの役に立てるようにこの人生を使うのが一番いいわけですけど、でも繰り返すけど、ベースにはその心を置かなきゃいけない。ベースにその心を置いてたら、逆にいうと小さいことで怒りとかね、不満とかわくことはない。ベースにおいては別にどうでもいいんだから。わが身はすでに捧げたんだから――っていう発想ね。例えばちょっとぐらい誰かが自分の悪口を言ってこようが、あるいは自分のことを裏切ろうが、自分が誤解されて、みんなから真実ではないことでいろいろ噂話を立てられようが、どうでもいいと。うん。
はい。もちろん理想的にはっていうかな、一番は、自分っていうものを使って救済っていうのが進められてほしいと。だから結局はこれもバクティにつながるんですけどね。結局その辺の采配は神におまかせと。神よ、どうかわたしっていう存在を使って、一瞬一瞬、みんなが救われるようにしてくださいと。
もちろんそれは自分の修行も含めてね。いつも言うように、自分が修行してることそのものが、将来みんなが救われるための道につながっていくわけだから、だから全力で修行しようと。あるいは全力で自分のカルマと戦おうと。
そして――ね、ちょっとまとめるけども――あらゆる意味で、衆生の好きなように自分を使ってほしいと。でも現実的には、なんていうか、ちゃんと智性的に考えて取捨選択しなきゃいけない場合はあるよ。例えばそうだな、じゃあこれから勉強会だっていって横浜駅を出たら、なんかセールスにつかまっちゃったと。で、「好きなようにしてくれ」でいうとさ、付き合わなきゃいけないでしょ。でもそれよりは勉強会行った方がいいよね。だからこれは心にはこだわりはないと。こだわりはないんだけども、当然勉強会に自分が今行った方が自分のためになり、そして将来的には衆生のためになると。当然ここでセールスに付き合っても意味がないと。こういう発想っていうか智性ね。でも、ベースとしては別にオッケーなんですよと。みんなの好きなようにこの存在を使ってくださいと。この辺はとても難しいところ。
つまり、だからそれが、なんていうか、言い訳にならないようにしなきゃいけないね。だからそれは自分の心をいつもチェックして。だから逆に言うと、繰り返すけど、ちょっとしたことでもし自分の心が動いたりね、あるいはちょっと誰かに何か言われてカチンときたりするとしたら、ああ、そのベースが自分はできていないと。だって全部捧げたって言ってるわけだから。こんなことで心がイラついたり怒りが出るのはおかしいんだと、そういうふうに念正智したらいいと思うね。
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