全力でさらっと生きる
なぜ、執着をしてはならないのだろうか?
それはまず、執着は苦しみの原因だからである、ということがあるでしょう。
執着がある限り、その対象(状況)が得られなければ苦であるし、得ているものを失うのも苦であるし、それと逆の現象にさいなまれるのも苦となってしまう。
次に、執着があると、ものを正しく見ることができない。
恋は盲目、というのが良い例ですが、そこまでいかなくても、わずかな執着や、その反対の嫌悪感、これが対象への正確な判断を狂わす。つまり執着は智慧を阻害するから、智慧を邪魔する無智の原因となるから、執着を持ってはいけないということもできます。
さて、上記二つももちろん重要なのですが、今回はもう一つの重要なことを説明しましょう。
それは、執着はカルマの流れを遅くするということです。
正確には、執着というか、とらわれといっていいでしょう。良いことや悪いことに対するとらわれです。
カルマの流れとは何でしょうか? 過去あるいは過去世の行為が原因となり、しばらく蓄えられた後、条件が整った段階で、我々の人生に、良いことや悪いこととして【カルマの果報】が返ってきます。
このとき、そのすばらしい経験に執着してとらわれたり、あるいは苦しみの経験にとらわれ、いつまでもそれを引きずって苦しんだり後悔したりしているとどうなるでしょうか?
カルマの流れがそこで停滞してしまうのです。
つまり本当は次から次へと、経験しなければいけないカルマの果報がたくさんあるわけですが、一つ経験するたびにそこで喜んだり苦しんだりして長くとらわれていると、カルマの流れが悪くなり、なかなか次のカルマの果報の経験に進みません。そしてその停滞の間に、そのとらわれの心により、さらに多くの新しいカルマを積むわけですから、カルマの浄化はなされず、どんどん増えるばかりです。
ではどうすればいいのでしょうか?
カルマの果報を経験したときに、瞬間的に喜んだり、苦しんだり悲しんだりするのは、別にかまいません。それはしょうがないでしょう。しかし引きずらないで下さい。
理想的には、1分も引きずらないで下さい(笑)。まあ、数秒くらいはいいでしょう(笑)。でもすぐに数秒後には、心をそこから離すのです。また、今やるべきこと、今の瞬間のみに集中するのです。
たとえば誰かに褒められた。うれしい。それはいいんですけど、それを、一時間も二時間も、あるいは三日も四日も、そのことばかり考えて喜んでいる人がいますね(笑)。この人の人生は、三日前で止まっているのも同じです(笑)。
苦しいことも同じです。確かにその瞬間は苦しかっただろうけど、その苦しい経験にとらわれ、何日間も引きずる人がいます。喜びを引きずる人より、苦しみを引きずる人のほうが多いでしょうね。これもやめましょう。何の利益にもなりません。
カルマは実際は、瞬時も止まることなく流れています。その流れているカルマをがっちりとつかんでしまい、流れを止めているのは、そのとらわれ、こだわりの心なのです。
だからその心の手を離してください。そうするとどうなるでしょうか?
ものすごいスピードでカルマが流れ出します(笑)。これは精神的・観念的に【そんな感じがする】ということを言っているのではありません。本当に現実的に、短い期間に、多くの経験をするようになるのです。それは私の経験上でも、はっきりといえます。
たとえば一ヶ月の経験が、以前の一年間くらいの経験に感じられます。そのくらいいろいろなことが起きるし、また、精神的にもさまざまな変化と成長が、短い間にあります。
喜びと苦しみの経験、良い果報と悪い果報が、次々と目の前を流れていきます。その瞬間瞬間はもちろん真剣に生きているのですが、とらわれがないため、その全体は、客観的に映画を見ているような感じになり、どんどんカルマは消化され、そこで新たなカルマを積まなければ、カルマはどんどん浄化されていきます。
瞬間瞬間、今を全力で生きる。しかし喜びも悲しみも、一分間さえも引きずらない。現象から学べることは最大限に学ぶ。しかし現象に心を縛り付けない。このような、真剣だけど【さらっとした心】で生きていると、カルマの流れが速くなるだけでなく、当然、新たな悪いカルマを積む可能性は低くなりますし、また、その上で仏教やヨーガの教えなどに代表される【正しい生き方】や【修行】などを実践していると、そのうち、その人の中には、【良いカルマ】しか残らなくなります。
良いカルマしかなくなったら、その人の人生はただ至福のみの人生になります。
良いカルマさえもすべて消滅したら、その人は解脱します。
これがカルマ・ヨーガの真義ではないでしょうか?
カルマ・ヨーガについて書かれた本や経典の中で、このようなことを具体的に書いているものは私は知りません。だからこれは私の持論に過ぎないのですが、自分の実体験や、今まで指導してきた人たちを見る限り、このように思うのです。そしてこの修行は、お釈迦様の仏教の本質とも大きくつながることであると思います。
結局、この人生とは、過去のカルマの清算に過ぎないのですから、逃げずに堂々とカルマの流れに立ち向かい、そのどれにもとらわれず、心を浄化し、そのカルマの流れの奥にある真実をつかむこと。これがこの輪廻の世界の中での修行であり、また人生の意義なのではないかと考えます。
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