解説「人々のためのドーハー」第二回(7)
そこには、微塵の邪悪さも存在しない。
法と非法は、二つとも浄化され、焼き尽くされる。
はい、つまりそのグルの指示によって、真の本性にたどり着いたとき、そこには微塵の邪悪さもなく、法と非法――まあ法っていう言葉は、ダルマっていうわけですが、いろんな意味があるんだけどね、ここではまあ真理ととらえたらいいでしょう。つまり真理と非真理。つまり「これは真理だ」、あるいは「これは真理ではない」、この両方とも焼き尽くされる。つまりその二元性そのものから脱却するっていうことだね。
彼の心が清められたとき、
グルのすばらしい特質が、彼の心に入っていく。
サラハはこの明智について歌う。
タントラやマントラには、尊重を払わない。
はい。この、「グルのすばらしい特質が、彼の心に入っていく。」――これが、マハームドラーの特徴だと思ってください。つまり密教っていった場合、まあ大まかに言うと、結構同じような道を歩むわけだけど、実は、例えばマハームドラー、あるいはゾクチェン、あるいは、そうですね、ラムデとか、密教の究極の道っていうのは何パターンかあって。で、そのパターンによってね、ちょっと違うんです、方法論がね。で、このマハームドラー系の特徴っていうのが、ここに書いてある、つまり――ちょっとこういうこと言うと、皆さん理解できるか、またはちょっと、「え?」って思う人もいるかもしれないけども――なんて言ったらいいかな、完全なる師匠の境地のインプットなんです。師匠の境地のインプットっていうのは、まず師匠がいて――師匠っていうのはもちろん本物の師匠であったならば、偉大な境地に達していると。その境地をそっくり頂くんです。弟子がね。
だから、もう一回言うけども、いろんな密教の道があるわけだけど、特にこのマハームドラー系統においては、師と弟子の――もともと密教っていうのは師と弟子のつながりっていうのは強いっていうか重要なわけだけども、マハームドラーも特にそうなんです。なぜかというと、今言ったように、師の経験してる境地をそっくり弟子に流入させるんだね。これがマハームドラーの一つの特徴になります。で、だからそれは早いっていうかな。
もちろん弟子が自分の力で一生懸命頑張ってその境地に到達できたらそれは素晴らしいんだけども、なかなかそれは難しいと。つまり弟子が師の境地に到達するのはなかなか時間がかかるわけだけども、師が自分の境地をそっくり弟子にインプットする。これはまあ例えばティローパとナーローパの話なんかはそういう感じなんだね。ティローパは、ほんとにいろんな試練をナーローパに与えて、言ってみれば自分とナーローパが一つになるための土台作り、条件作りをひたすらやらせたんだね。で、最後の最後に、ティローパは自分の悟りを弟子ナーローパに全部注ぎ込んだ。で、そこでまあその物語を見ると、「ここにおいて、ナーローパはティローパと心において一つになった」って書いてある。これがまあ、マハームドラーの一つの、なんていうかな、スタイルなんだね。
もちろんここでの前提は、その師が、高い境地というよりは、さっきから言ってる心の本性に到達してるっていうのが大前提だよ。つまり師が心の本性に到達していて、その心の本性の境地を、弟子にそっくりインプットするんだね。で、この心の本性っていうのは、今までの話を聞いたら分かると思うけども、一つです。一つっていうのは、だから、誰が見てもね、空【そら】は空【そら】なのと同じように、誰が到達しても心の本性は同じ一つのものなんだね。だから例えばいろんな聖者がいて、それぞれの聖者が経験してる心の本性が違うっていうことはない。一つのみんな同じものに到達してるわけだね。でも例えば弟子はまだそこまで行っていないと。じゃあどうするんだと。そこに行く道をもちろん教えるわけだけども、教えつつ、ある段階において、師の経験を完全に弟子に流入させてしまうっていうか。これがまあ、マハームドラー系の密教の一つの特徴だね。
はい。で、「タントラやマントラには、尊重を払わない」ってあるけども、これもだからさっきから言ってるカウンターパンチ的な言い方だと考えてください。つまり、ここで言うタントラやマントラっていうのは、まあ、いわゆる密教のさまざまな技術のことだと思ったらいいけども、もちろん密教の技術で素晴らしいものはいっぱいあるし、実際使えるものはいっぱいあるわけだけども、ここで言ってるのは、そのようなことにこだわり、本質を見失ってる者たちのために、いや、そんなの意味ないよと。じゃなくて、心の本性を悟れと。そしてグルに、師匠に、悟りの心のインプットをしてもらえ、ということを言ってるわけですね。
-
前の記事
解説「人々のためのドーハー」第二回(6) -
次の記事
解説「ミラレーパの十万歌」第三回(9)