解説「人々のためのドーハー」第一回(14)
はい。じゃあいったんちょっとここで今日は終わって――ちょっとね、消化不良気味になると思うので、いったんここで終わって、質問があったら最後に聞いて終わりにしましょう。はい、じゃあ全体的に質問ある人いますか?
(H)マンダラなんですけど、いまいちよく分かってないんですね。マンダラっていうのは何を指してるのか、まあ、何かこう世界を表わしたものを指してるのか、よく分かってないんですけど、マンダラの意味について。
マンダラはね、いろんなレベルで説明できるけど、根本っていうか究極的に言うと、われわれが、ある種の究極のね、悟りに達したときに、この世界はマンダラであるっていうことに気付くわけだね。まあ、だからそれは、『日々修習する聖者の智慧』の最初にダライ・ラマ七世の言葉としてもあるけども、この世界は仏陀や菩薩たちのマンダラであって、すべてはそのお遊戯であると。この世界は仏陀や菩薩がお遊戯してるだけ――まあリーラーだね。遊戯してるだけなんだっていう、一つの発想があるんだね。だからそれが根本の話ね。だから、われわれが悟ったときに見える世界観っていうのが、この世は仏陀や神のマンダラであると。
で、それを逆に利用して、いろんな修行体系において、例えばさっき言ったへーヴァジュラだったらへーヴァジュラっていう修行とかね、あるいはチャクラサンヴァラとかそういう修行がいろいろあって、その中で例えばへーヴァジュラっていう仏陀を中心に置いて、そのへーヴァジュラを中心にしたマンダラはこうだっていうふうに定義するんだね。こういうふうになっていますよっていうふうに非常に観念的にマンダラっていうのを描いて。で、そういうふうに瞑想しましょうと。だからこれは、今言った二番目のことっていうのは、まだ真実を悟ってない者たちが擬似的にそういう訓練をすることで、真実に近づこうとするリハビリみたいなもんです。
だからマンダラっていうのは、もう一回話を戻すとね、あの描かれるマンダラとかっていうのは、あれはだから全宇宙を示してるといってもいい。全宇宙の正体はこうなってるんですよっていうことを示してるんだね。つまり、この世にはいろんな仏陀がいて――っていうよりも仏陀しかいないんだと。あるいはすべてが神や仏陀の遊戯としてなされてる世界なんだっていうことがほんとのほんとの話なんだけど、それを悟るために擬似的にああいうマンダラを作って、イメージしたりとか、瞑想したりとか修行するわけですね。いいですか?
(H)じゃあ、ここでいう、「食べ、飲み、感覚の楽しみにふけり、 何度も繰り返してマンダラを満たして、」っていうところのこのマンダラは、その擬似的に作ったもの……
そうそうそう、それは修行法としての、さっき言ったガナチャクラっていってね、みんなで擬似的にマンダラを作って、神のイメージをしたりしながらやることをいってるだけの話だね。だからそれは非常に狭い話だと考えてください。そこでいうマンダラはね。
(H)じゃあ、ここでいうマンダラは、マンダラを表わしたもので、本当のマンダラ自体は、神のリーラーのあらわれ――あらわれでもなく、まあ、宇宙そのもの?
まあ、宇宙そのものだね。だから、この世界はマンダラなんですよと。神の、なんていうかな――だからよくここでも言ってるようにね、「すべてはクリシュナですよ」とか、「すべては、神しかいないですよ、この世には」っていうことを表現したものっていうかな、それがマンダラだね。
はい、他に何かありますか?
(T)いい瞑想は向こうからやって来るとか――で、そのときに鍵になるのが師匠だとか――そういう話があったと思うんですけど、そういう感覚的っていうか抽象的な話は、僕、すごく好きなんですけど。
(一同笑)
(T)そういうとらえどころのない世界っていうか。で、その答えを言語化することはできないと思うんですけど、何かヒントっていうか、見極め方とかそういういい方法が……
見極め方(笑)?
(T)見極め方というか、ヒントというか、そういうのがあったら……
いや、だからこの勉強会で言ってるようなことが全部ヒント(笑)。だから、そういう感じでTさんが惹かれるっていうのは、前も言ったように、なんか心が気付いてるんだね。で、それはまさに今言ったように、言語化はできないんです。言語化できないから――で、この勉強会っていうのはさ、いわゆるカイラスの縁ある人たち向けの、ある意味かなり、特質的なね、縁の中での今話をしてるわけだね。だから一般に話す話とはやはりちょっと違う。しかしその中でもさらに、なんていうかな、一対一でないと、暴けない世界っていうのはやっぱり出てくるんだね。
今はだから、もう一回言うけども、言語化できないものを一応言葉っていう――例えばヤントラは形を利用するよね。マントラはバイブレーションを利用するよね。じゃなくて皆さんが認識してる言語という概念を逆に利用して、言語化できないものをちょっと表わそうとしてるわけだね。で、それを例えば、とらえどころがないってさっき言ったけど、まさにとらえどころがないんです。まさにとらえどころがあっちゃ、それは間違いだから(笑)。とらえどころがないものを、今こういう感じで話してるわけだね。
で、こういうことをわたしはよく勉強会で何度も言うわけだけども、それは皆さん、しっかりと自分の財産にしたらいい。で、そういう目で例えば皆さんがいろんな経典とかを読むと、またちょっと違った読み方ができるっていうか、もうちょっと深い意味合いを探れるようになってきます。
そして、ほんとにほんとにそれが、究極的にそのとらえどころがないところが解明されるときっていうのは、二つのパターンのどちらかです。二つのパターンっていうのは、一つは、もう具体的な師の介入。師の介入っていうのは、いろんなかたちで師が、言ってみればプレッシャーを与えるわけですね。いろんなかたちで師と弟子のやり取りがあって、そこで弟子の何かがぶっ壊されて、ブワーッてこう開けるパターンと。で、もう一つは、まあ、これも裏側には師がいるんだけど、直接的には師が何かやってくるっていうよりは、まさに神の恩寵があって、で、つまり師の言ったとおりに修行してるうちに、パーッてあっちからやって来て、何かが開けてくるっていうかな。普段どおりにいつもどおりにただ修行してるだけだったんだけど、いきなりババババッて来て、ある部分が解明されるとか、そういうパターンもあるね。