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修行・教え・この世の経験

修行・教え・この世の経験

この三つが必要です。
この三つがそろうことによって、悟りは深まっていくことでしょう。
逆に、どれか一つが足りなければ、うまく行きません。

教えというのは、ヨーガや仏教に代表される、真理のダルマです。
ヨーガ、サーンキャ、仏教の小乗仏教、大乗仏教の唯識派や中観派など、インドやチベットでは様々な無駄な論争が繰り広げられて来ましたが、そんなのはどうでもいいことです。それぞれの派の違いは些細なことであって、それらの根底に流れる真理の教え。それらをしっかりと学ぶ。

しかし真理の教えと、実生活における自分の心の動きとの間には、大きなギャップがあります。
たとえば嫌いな人に馬鹿にされたとき。真理の教えでは、そこで怒ることなく、慈愛を発せといいます。しかし昨日まで憎しみでいっぱいだった人に、そんなことができるはずがありません。頭ではわかっているけど、実践はできないという状態です。

しかしそこにヨーガや仏教のアーサナ、呼吸法、瞑想などの修行が加わると、物理的にエネルギー的に気道が通ったり、心が広がったり、落ち着いたりしてきます。あるいは気が上昇して高い見解を得たり、様々な正しい神秘体験により見解が広がります。
それによって、できなかったことが少しずつできるようになってきます。以前は心を動かしていた場面で動かさなくなり、かつ、慈愛を発せるようになるかもしれません。
それにより一つの経験を得ます。真理の教えどおりに生きることのメリットと喜びの経験です。これにより心は学習し、より正しく生きようとし始めるでしょう。

この三つのうち、修行がなかったらどうなるでしょうか?
教えは頭では知っているけど、心がなんら改善されない。使えない道具を持っている人のようなもので、意味がありません。

正しい教えがなかったらどうなるでしょうか?
修行によって、心とエネルギーの解放や上昇が生じ、少し性格が変わってくるでしょう。しかしそこでどのように自分を改善すればいいかということが、教えがないとわからないので、何をすればいいのかわからなくなってしまいます。

最後の、この世の経験についてはどうでしょうか。
その前に、我々はこの現代日本で生きている以上、必ずこの社会でいろいろな人と接し、いろいろな人間関係を経験しなければなりません。
ヒマラヤなどにこもって、一切人と接しないというのも一つの道でしょう。しかし我々に与えられた条件は、そうではありません。「あるヨギの自叙伝」風の表現をすれば、自分の部屋をヒマラヤの洞窟とし、この社会全体を修行道場と考えなければならないのです。
そのような修行のメリットとはなんでしょうか。
一人で瞑想し、たとえば慈愛の心を修習したとします。ああ、すばらしい慈愛の心が身についた、と思ったとします。しかしその人のところに誰かがやってきて、悪口を言われたら、慈愛など吹っ飛んで、怒ってしまうかもしれません(笑)。瞑想しているときは聖者だけど、瞑想から立つと凡人である、では駄目なのです(笑)。

つまり教え(知識)を智慧に昇華するには、実際の経験が必要なのです。実際の人間関係等において、極端な言い方をすれば、心を壊され、エゴを壊され、慈愛を壊され、そこでまた心を作り直して、壊れないものにしていくこと。これによって智慧が形成されていきます。
簡単な例を挙げると、ここに一切料理をしたことがない人がいて、この人がたとえばある難しい料理のレシピを読み、頭で理解したとします。
しかしこの人が実際に料理に挑むと、おそらく失敗するでしょう。やってみなければわからないことが多くあるからです。あるいはレシピに書かれていない細かいコツなどもいろいろあるからです。そこで失敗したり、コツを学んだりということを何度も繰り返すうちに、その人は本当の意味でその料理を身につけ、そのときその人にレシピ(教え)は不要になります。つまり知識が智慧に昇華されたというわけです。
これが、経験によって知識が智慧に昇華されるということの意味です。

よって、もう一度まとめますが、修行、教え、実際の経験、これらはすべてが必要であり、一つでも欠けたら智慧は生じないのです。

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