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解説「人々のためのドーハー」第一回(13)

 感覚の欲望は鎮まり、
 自己という概念は破壊される。
 おお、友よ、それが本性身である。
 それをお前のグルに、はっきりと尋ねるのだ。

 こうして思考は捉えられ、プラーナの動きは止まるがゆえに、
 これは最高の至福である。
 こうして人は『今・ここ』にとどまり、どこへも行くことはない。

 はい。これもまあ、深い境地をずっと言ってるわけですが、感覚の欲望は鎮まり、 自己、つまりわたしという概念が破壊され――ここで本性身っていってますが、この本性身っていう言葉は実はいろんな定義があるんだけど、まあ、その定義は別にして、われわれの心のね、本性って考えたらいいです。単純にね。われわれの心の本当の本当の本性に到達しなきゃいけない。
 で、「それをお前のグルに、はっきりと尋ねるのだ。」と。「尋ねるのだ」っていうのは、これはまあ、言い方を換えると、導いてもらえっていうことですね。

 こうして思考は捉えられ、プラーナの動きは止まるがゆえに、
 これは最高の至福である。
 こうして人は『今・ここ』にとどまり、どこへも行くことはない。

 はい、さっき言った至高の安らぎね。あっちこっち動いてる心の働き、概念的な動きをバシッととらえて、静め、そして同時にプラーナ、生命エネルギーの動きも止め、で、心の本性にとどまることの一つの表現だね、ここもね。

 それが自己の経験となった今は
 それに関して過ちを犯してはいけない。
 それを実在または非実在と言ったり、一つの味の至福などと呼ぶことは、そこに制限を設けることになる。

 お前自身の思考を完全に理解せよ、おお、ヨーギンよ!
 水が水と一つになるように。

 どのような瞑想によって、解脱を得るというのか?
 なぜそのような虚偽を受け入れるのだ?
 ただお前の良きグルの言葉を信頼せよ。
 これが、私、サラハのアドヴァイスだ。

空(そら)の性質は本来、明晰でクリアーであるが
 ずっと見つめ続けていると、視界が不明瞭になっていく。
 そのようにして空(そら)の性質が変わったように見えるとき、
 愚か者は、その誤りの原因が自分の中にあるということを知らない。

 はい。まず、「それが自己の経験となった今は」ってありますが、つまりそれは、まあ、一つの悟りに到達したあとの話だね。で、ここにもまた落とし穴がありますよと。つまり、ある境地に達して――これも何回かここでも言ってるけど、言葉を超えた境地に達しましたと。で、そのあとにそれを、概念的におとしめてしまう危険性があるんだね。
 ――っていうよりもね、もうちょっと具体的に言うと、これも何度か言ってるけど、ある種の究極の境地を経験しました。で、それがずーっと続いたら素晴らしい。でも普通、パッてまた戻ってしまうんだね。で、その完全なる絶対なる境地から戻ってしまったときに、今度はそれがただの記憶になるわけです。記憶ね。「こうであった」っていう記憶ね。で、その「こうであった」っていう記憶に理由付けや概念付けを行ない始めるんです、われわれはね。それによって、もうだんだんその本質的なものから離れていってしまう。離れていってしまうんだけど、まだそれが、自分は本質的なものを経験してるって錯覚に陥るんだね。だからちょっと高度な注意点だね、ここはね。

 お前自身の思考を完全に理解せよ、おお、ヨーギンよ!
 水が水と一つになるように。

 はい、これはつまり客観的に自分を認識してどうのこうのっていうんじゃなくて、完全に自分の心に、水が水に溶け込むように溶け込んで、自分っていうものをね、あるいは思考っていうものを完全に理解せよ、ということですね。
 はい、そしてまあ、次のところもさっきと同じような、「ただグルの言葉を信頼せよ」と。つまり、自分勝手な、あるいは単純に権威のある瞑想なり修行なりで満足するんじゃなくて、ただ師の言葉を信頼せよっていうことですね。

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