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解説「菩薩の生き方」第十一回(1)

2015年7月8日

解説「菩薩の生き方」第十一回

 今日は『菩薩の生き方』ですね。はい、これは久しぶりですけど、おなじみのね、本ですが、いわゆる『入菩提行論』の解説ですね。この本自体が『入菩提行論』の解説なので、まあ、今日はそのさらに解説っていう感じになりますね。
 『入菩提行論』は皆さんもご存じのように、非常に重要な聖典ね。菩薩道における非常に重要な聖典です。日本ではそんなに――最近少しずつ知られてきたけども、まあ日本仏教界とかではまだあまり重要視されてない経典だね。で、何度も言ってるけど、例えばダライ・ラマ法王が、チベットから亡命する際に、亡命するから当然、中国の目を盗んで出て来るから、あまり荷物は持っていけなかったわけだけど、経典類の中でただ一つ、この『入菩提行論』だけを持ってきたといわれてるほど、まあ、つまりチベット仏教においても非常に重要視されてる経典だね。
 で、この『入菩提行論』自体が非常に多くの示唆を含んでおり、そして、まあ、そうですね、カイラスにおいても一つの柱となってると言ってもいいくらいの重要性を持つものですね。よって、それを解説したこの『菩薩の生き方』も素晴らしい――まあ素晴らしいっていうかわたしが解説したんだけど(笑)――素晴らしいわけだけど、さらにその解説っていうかたちで、よりね、深く学んでいくのは、まあ、われわれにとって非常に利益があると思います。

【本文】

【解説】

 この辺は前からの続きで、様々なタイプの供養のイメージを述べているわけですね。
 ところで、前にも書いたように、イメージの世界も現実の世界もどちらも幻影なので、本当に心がこもっているならば、これらはイメージとはいえないわけです。
 私はラーマクリシュナとシャーンティデーヴァが好きなんですが、この辺を見ると、共通点を感じますね。

 ラーマクリシュナはカーリー女神に強い帰依をしていたわけですが、たとえばカーリー女神の像に食事を供養するときなど、まるでその像が本当に生きているかのように、口元に食べ物を持っていったり、笑って会話をしたりしていたといいます。それはそういう儀式をやっていたというわけではなくて、彼の中では、本当にそれは像ではなくてカーリー女神そのものになっていたのでしょう。
 このシャーンティデーヴァの記述も、単に供養の瞑想の仕方を述べているわけではなく、シャーンティデーヴァは本当に供養と帰依の気持ちの高まりのゆえに、ラーマクリシュナのように、その世界に入り、実際に供養の喜びを楽しんでいたのではないかと感じますね。

 そして我々が日常生活においてこの部分の記述を取り入れるとするならば、部屋に祭壇を作り、そこをブッダや菩薩たちと親交する場と決め、その祭壇に、様々な食べ物や飲み物や、お香、華、装飾品などを供養するということはできますね。
 このような供養の儀式の重要性は形ではありませんが、もし本当に心がこもっていたならば、おのずと形は整ってくるでしょう。とにかくまず供養の心を強く持つ事が大事です。「供養しよう」ではなく、「どうか供養させてください」という強い気持ちが大事ですね。そうすればおのずと形は整います。

 そしてもう一つのやり方は、日常生活において、五感で感じるすばらしいものをすべて心の中でブッダや菩薩に供養するということですね。食事をするときも、服を着るときも、きれいな景色を見たときも、何をするときも、まずすべてを心からブッダや菩薩に供養するという癖をつけるといいでしょう。

 ちなみに、途中で出てくるサマンタバドラとは普賢菩薩、アジタとはマイトレーヤ(弥勒菩薩)のことで、マンジュシュリーは文殊菩薩、そしてローケーシュヴァラは「世自在」と直訳できますが、これは観音菩薩と同一とされます。これらは大乗仏教や密教で重視される菩薩方ですね。

 はい。「第二章 罪悪の懺悔」とありますが、実際はこれは、『入菩提行論』自体は、念正智の教えがまず強くあって、そしてそれプラス、六波羅密ね。六つのパーラミター――布施、戒、忍辱、精進、禅定、智慧のプロセスについて書いてあって、そして最後に回向っていう、だいたいの流れになっています。で、ここはだから「罪悪の懺悔」ってはなってるけど、実際には布施、そして供養ね、そして懺悔のパートと言ってもいいね。
 まあ、この布施っていうか、供養ね。供養、そして懺悔。これは大乗仏教において非常に重要視されるパートですね。まあ、皆さんにとってはもうおなじみですけどね。とにかく供養すると。いろんな意味で供養すると。そして懺悔をすると。
 これはつまり――まず懺悔によってわれわれはプライドを落とし、観念を落とし、心を浄化し、透明な状態をつくらなきゃいけない。で、供養によって、自分を捧げ、あるいは自分の、「わがもの」「わたしの」とか考えてるものを捧げ、あるいは素晴らしい富を捧げ、あるいは自分の奉仕を捧げ、すべてを捧げることによって、聖なるものとの絆をつくらなきゃいけない。
 つまり、懺悔がなく供養しようとしても、それはそこにプライドが入ったり観念が入ったりけがれが入ったりして、あまり実質的な効果はない。供養だけして懺悔がなかった場合、これは、いつも言ってるように、なんていうかな、幸せだけど悟れない(笑)。供養によってある程度の、完全ではないけども徳が積まれたり、ある程度の絆はできるけども、懺悔を疎かにすると悟れないと。逆に懺悔はしっかりやるが供養をやってないと、昔の悪業は浄化されたけども、それ以上の聖なるものとの結び付きや、あるいはわれわれが高い世界に行ったり解脱したりみんなを救うためのパワーっていうのがないと。よってこの供養の徹底と、それから懺悔の徹底ね、これが非常に重要になってくるわけですね。
 で、どちらかというと懺悔について徹底的に、このあとシャーンティデーヴァは説くわけだけど、その前に供養に関して、これは前回のところからの続きとして、一つのイメージとして、供養のイメージをバーッて書いてるんだね。で、ここに関する解釈としてここでわたしが解説してるのは、これは別に、なんていうか、まあシャーンティデーヴァの本当に作品っていうのは非常に美しくてね。美しいっていうのは、学者みたいな固い書き方じゃないんだね。本当に流れるように、詩を書くような感じで書いてるわけだけど。だからここも別に固く「第一段階、なんとか」とかいってるわけじゃなくて、いきなり供養のイメージがバーッと書かれてると。で、これはおそらく、別に、なんていうかな、固い頭で学術的に書いたんじゃなくて、おそらくシャーンティデーヴァ自体が突っ込んでいた、完全に陶酔していた供養のイメージをサーッとその書き連ねたんだろうなと思うね。
 はい。で、ここに書いてあるように、「それはラーマクリシュナ」――まあラーマクリシュナの場合はもちろん見神、つまり完全にカーリーと同じ世界にいたから、まさに――傍から見たらただ銅像に供養してるんだけど、ラーマクリシュナとしては生きたカーリー女神に本当に心から供養していたと。
 あと、前にも言ったけど、ラーマクリシュナの弟子のラーマクリシュナーナンダ。彼が、亡くなった師のラーマクリシュナの遺骨が納められていた祭壇に対する供養もまあ、同じだったっていうね。つまり、まるで本当にまだ師ラーマクリシュナが生きてるかのように、例えば暑い夜は、一晩中うちわで扇ぎ続けていたりとか、あるいは食べ物を祭壇に捧げるときも、「この食べ物は熱い方がおいしいから」と言って、火にかけてちょっとずつ持ってきてちょっとずつ食べさせるとかね。もうまさにそこにいらっしゃるかのように接していたっていうかな、供養していたと。で、それは、繰り返すけども、もちろん最初は義務的にやってもいいのかもしれないけど、こういったシャーンティデーヴァ、ラーマクリシュナ、あるいはラーマクリシュナーナンダとか、こういった見本になる人たちっていうのは、当然、義務的にやってたんじゃないよね。つまり、神や仏陀に対する、あるいは師に対する強烈な愛、強烈な供養の気持ち。ここに書いてるように「供養させていただきたい」っていう気持ち。ね。
 いつも言うけども、現代の修行者っていうのは非常に傲慢であると。傲慢だから、なんていうかな――まあ、もちろんそんなことは皆さん表層意識では思ってないだろうけど、潜在意識的には、まるでグルや神々や菩薩方が、みんなに対して「どうか修行してください」って言ってるような感じになってしまう。うん。そうじゃなくて、修行者の側が謙虚に、「どうか修行させてください」と。あるいは「供養させてください」と。「奉仕をさせてください」っていう、そういう気持ちでなきゃいけないんだね。で、そのような謙虚な、そして強烈な供養の気持ちの高まりが生じるならば、自然に、ここに書いてるような気持ちになると。あるいはそのようなイメージが出てくるんだと。

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