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「ヴィヴェーカーナンダ」(19)

 コモリン岬に着いたナレーンドラは、子供のように興奮しました。寺院に駆け込み、処女の女神・カンニャークマーリーにひれ伏して礼拝した後、外に出て海を眺めていると、彼の目は一つの岩に吸い付けられました。ナレーンドラは海を泳いでその岩まで渡ると、その上に座りました。
 ナレーンドラの胸は高鳴りました。ついにナレーンドラは、北のヒマラヤからこのインド最南端の地までの、徒歩による大いなる旅を達成したのでした。

 岩の上に座りながらナレーンドラは、旅の途中、自分の目で見たものを思い出していました。苦しむ多くのインドの民。そして自分の使命は何なのかを、改めて自問しました。
 ナレーンドラは、出家の儀式のときに、神への奉仕に自らを捧げるという誓いを立てていました。そしてその神はすべての人間として現われており、彼らへの奉仕こそが自分の使命であることを確信しました。
 そしてそれは、自らの母国であるインドの民の救済からはじめなければならない、と考えました。
 ナレーンドラは叫びました。
「私の真じる唯一の神、すべての魂の統一者、そしてとりわけ邪悪なる者として現われた神、苦悩する者として現われた神こそを私が礼拝できるならば、私は何度も生まれ変わり、数限りない苦しみを受けますように!」

 しかし、どのようにしてインドの民を救うのか。
 ナレーンドラは、やはり宗教こそが、インド民族の背骨であると思いました。インド滅亡の因は宗教にあるという評論家の意見には、ナレーンドラは耳を貸しませんでした。むしろ彼は、宗教の名のもとに行なわれた虚偽、迷信、偽善などを批判しました。
 人間の中に眠っている神の存在を知ることが、人間に強さや智慧や愛を与えるということを、ナレーンドラは知っていました。そしてこの人間の中に眠る神性を目覚めさせる手伝いをしようと、彼は決心したのです。
 しかしそのためには、現実的なさまざまな行動が必要だと感じていました。
 このときに考えたことの一部を、ナレーンドラは後に法友への手紙の中で次のように記しています。

「もしも私心のない出家修行者が、他人への善行を心がけ、口頭で教えたり、不可触民に教育を広めたり、またあらゆる逆境からの改善に種々の方法を探し求めて、村々を訪れるならば、やがては実を結ぶでしょう。
 これらの計画のすべてを、私はこの短い手紙に書くことは出来ません。要点だけを言えば、相手が来ないなら、こちらから出かけていかねばならないということです。
 貧しき者は貧しさのあまりに学校に行けません。彼らに詩などを読んでやっても全く無益です。私たちは一国民として、個々の人格を失っているのです。私たちは失ったその人格を国民に返し、民衆を向上させなければなりません。」

 しかし具体的に、どのようにして自分のヴィジョンを実現させればいいのか。岩の上でこのようなことを思索していたとき、ナレーンドラは、西洋世界に近づき、彼らの自覚に訴えなければならない、と思い至りました。インドが没落するなら、世界もまた没落するだろう。なぜなら西洋社会は、物質主義という怪物の鋭い爪から自らを救うために、インドの叡智を必要としていると感じたからです。

 そのとき、ナレーンドラの心にひらめきがありました。
 ――アメリカ。
 当時のアメリカは、無限の可能性を秘めているように見えました。楽天的で、豊かで、物惜しみせず、感受性豊かな人々。ナレーンドラは彼らにインドの叡智を教え、逆に彼らから西洋の智慧をインドに持ち帰ろうと考えました。アメリカでの伝道に成功したならば、西洋にインドの叡智を広められるだけでなく、インドの人々の中に新たな自信を生み出すだろうと考えました。
 ナレーンドラは、シカゴの世界宗教会議に出席せよと勧めてくれた友人たちの言葉を思い出しました。特に、最初にそれを勧めてくれたある友人の、次のような言葉を。

「行って、完全に感服させて、帰れ!」

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