yoga school kailas

2006.9.20  「修行の基礎」その3

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より

2006.9.20 勉強会 「修行の基礎」その3

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

 あ、ちょっと付け加えると、高い世界に至る条件、これは今、戒律って言ったけども、あの、単純にいうと、もちろん戒律もそうなんだけども、上昇のエネルギー、やはりこれは必要です。さっきも言ったけど、上昇のエネルギー。もちろん戒律が…、戒律っていうのはね、下へ向かうエネルギーをシャットアウトすると考えてください。エネルギー理論的にね。戒律を守ることによってエネルギーが下に行きにくくなります。だから徳を積んだりだとか、あるいは高い三宝とか神々への帰依によって、あるいはいろんな行法によって、エネルギーが上にあがります。これが一つです。

 で、もう一つは、智性が必要です。これは単純な話なんだけども、低い世界と高い世界の魂は何が違うんですかというと、これはやはり智性だってのがある。低い世界、つまり三悪趣と呼ばれる地獄、動物、餓鬼っていうのは、はっきり言って智性が低い。つまりその、地獄の住人っていうのは、気に入らないときは相手を痛め付ければいいって思ってる。あるいは、動物っていうのは、欲求っていうのが出たら満たしゃいいって思ってる。あるいは、餓鬼っていうのは、欲しかったら奪えばいいって思ってる(笑)。餓鬼って智性が低いんです。だから、智性がもうちょっと高まってくると、人間みたいに、ちょっと色々と悩み出す、これでいいのかな~とか(笑)。神になってくるとはっきりしてくる。いや、やはり、人に施し、悪をなさず、それが正しいんだっていう智性が身についてくる。だから知性の高さっていうのがやはり必要になってくる。

 それでは、もう一つは、なんていうかな、まぁ「縁」だね。真理とか、高い神とか、もちろん仏陀とか、そういったものとの縁。これが、我々が解脱とか悟りとかいかなくても、少なくとも高い世界と結び付けられて、高い世界と、に生まれ変わる可能性を作る因です。

 もう一回言うと、しっかりと戒律を守ることも含めて、エネルギーをしっかり上げると。そして、智性を高めると。そして、高い世界と、あるいは真理そのものとの縁をしっかりと作ると。

 だからねぇ、法施が一番の徳になるっていうのはそこにあるんです。法施っていうのは、人に真理を伝えると。これは何かっていうと、例えば、自堕落的な生き方をしていた人がいたとして、君修行しなさいと、仏陀の教えはこうだよと、こういうことやっちゃいけないよと、これが正しい生き方だよと、完全にできないとしてもできる限りやってみなさいと、そうすると、その人の意識が変わったとしますよ。あ、そうかと、私は正しい道を歩こうと。そういう完璧にできなかったとしても、ちょっとずつ正しい道を歩き出したと。これは、その人の人生にとっては、相当逆転現象が起きたっていうか、そのー、グーーっと高い世界に結び付けられた現象なんです。そういうことを色んな人にやってたらどうなります? 高い世界に結びつけるっていうカルマを、みんなにやっているわけだから、自分に全部返ってきたら、自分は行きたくなくても高い世界に行ってしまう(笑)。集積だから。

 地獄は逆だよ。例えば、一匹虫を殺した。それくらい、あまり小さなカルマかもしれない。しかしその小さな虫が潰されたっていうカルマ、あるいは、虫はあんまり苦しみとか感じないかもしれないけども、小動物を傷つけたとしますよ、あるいは友達を殴ったとか、そういうのも含めて、色んな他者の肉体的精神的苦痛を、生まれた時から全部合わせて全部返ってこなきゃいけないとしたら、地獄に行くしかないわけです(笑)、ね。だからその集積なんだね。
 だから、話を戻すけど、法施をしっかり、やっている人っていうのは、多くの教えを振りまいている人っていうのは、あの、高い世界に生まれる確率は増えてくる。つまり上に引っ張られるエネルギーが強くなる。だからこの辺をしっかりこう、まぁもし高い世界に行きたいんだったらね、あの、押さえておくといい。

 はい、じゃあ質問等ありますか?………なんでもいいですよ」

Kさん「生臭坊主はどうなるんですか」

先生「え? 生臭坊主(笑)。ちょっと待って、日本のお坊さんはどうなのとかなら分かるけど、生臭坊主ってのはちょっと(笑)、もう生臭って言っている時点でもうダメじゃないですか(笑)。」

みんな (笑)

Kさん「どういう考えなんでしょうかねぇ、こう、お酒飲んでてね…………いかにもお坊さんなんですよ、とりあえずビールでとか言って」

先生「あの、お坊さんってさ、私が思うにね、もちろん今の日本のお坊さんにも、あのー、色々いると思うんですよね。例えば、完全に職業として捉えていて、修行する気は全然ないと(笑)。仏陀に仕える気も全然ないと。例えば私のあの、中学時代の友人もお寺の息子で、そいつは、まぁ、お寺にそのまま就職したわけだけど(笑)、就職先としてお寺があると。で、なんとなく、その、偉そうなことを言っていると。これはもちろん、話にならないですね。
 そうではなくて、真剣に修行しようとしていると。しかしその、日本の仏教の特殊な考え方があるから、それに則ってこれくらいはいいじゃないかという考えがある。で、それは、はっきり言ってしまうと、お坊さんであろうが何であろうが、まったく皆条件は同じです。その人がどれだけ悟っているのか、どれだけ戒律を守っているのか、どれだけ気が上がっているのか。

 あるいは、どれだけ、あの、知性が高いのか。あるいは、どれだけ、真理とか三宝とかと縁が強まっているのか。それだけしかないんだよね。だからお坊さんであるとかお坊さんでないとかあんまり関係がない。」

Kさん「職業だもんね」

先生「日本ではそうだね。日本ではあれだから、檀家制度とかができて、あの、もう職業として、ある時代からはなってきている。ただし私は、100%それが悪いとは思わない。あの、なんにせよ、仏陀の教えというのが広まっているわけだから。もちろんそれで勘違いして、悪い方向へ行ってしまう人もいるかもしれないけども、全く仏陀と縁がなかった人が、ちょっとでもそういう感じで興味を持って仏教と縁ができる人がいるかもしれない。

 それは100%悪くはないんだけど、ただチベットやインドで、あるいは南方の方で発展した仏教に比べると、やはり日本仏教っていうのは修行とか教えの、あの、緻密さとか、そういうのからするとちょっと劣っているかもしれない。日本仏教ってちょっと面白くて、前にも言ったけど、あの、なんていうかな、宗派主義があるんだよね。普通そういうのってないと思うんですよ。インド仏教にしろチベット仏教にしろ、その、網羅しているわけだよ、その、上座、原始仏教から大乗仏教、それから密教、全部網羅した体系になって、まぁだいたいチベットとかそういう僧院に入ると、徹底的にそういうのを全部学ぶわけです。

 で、日本仏教の場合、例えば、浄土宗だったら浄土系の教えを徹底的に学ぶけど、他のは学ばないとか。あるいは、禅だったら禅とか。日蓮宗だったら法華経を中心に学ぶとか、ちょっとこう、一つの教えで宗派ができてしまっているというか(笑)。もちろんあの、南方仏教とかは原始仏教なんだけども、あれはまぁ、その、原始仏教以降のものは正しくないと考えて、お釈迦様の仏教を、なんていうかな、古いタイプの原始的な仏教を網羅して学ぶという発想なんだね。
 その辺がちょっと、あの、日本仏教の特徴だけども。

 だから今のお坊さんがどうかっていう全体ではちょっとくくれないかもしれない。真剣に修行している人もいるだろうし。あるいはその、修行の、まぁ、実際にそれが効果があるのかどうか、も含めて。

 私の友達にも、ある、真言密教の人がいたんだけども、あの、真言密教ったらもちろん、日本の仏教の中では、結構、苦行とかする方だと思うんだけども、その人が言うには、その人やめたんだけども、あの、その人が言ってたのは、一ヶ月くらい山に篭ってすごい修行するんだって。それはまぁ、確かに凄いと。でも、山下りたら、さーーって感じで、六本木とか繰り出すんだって(笑)。もう、反動があるから、ワーーーって遊んで、で、また、よし、行くかって山に篭るらしくて(笑)、それでその人は疑問を抱いたらしくて、これでいいんだろうかって(笑)。だから、まぁ、なんていうかな、例えば、最初に持ってきたね、空海なり、法然とか親鸞とか、ああいう人がどうだったかっていうのはもうわかんないですよ。その、会ってないから、わかんないけども、現代のその、今の日本仏教の人たちが、まぁ、なんていうか、修行しづらい環境にあるのは事実だろうね。仕事として、色々、法要とかやんなきゃならないだろうし。

 チベットではねぇ、これは考え方の違いではあるんだけども、まぁ、チベットにももちろんそういう、ちょっと、檀家制度じゃないけども、それに近いものがあるんだけど、あの、本当に真面目なお坊さんは、例えば、葬式を、葬式っていうかその、死者の導きなわけだけども、それを、依頼されて引き受けるときに、相当、検討するっていうね。それはなぜかって言うと、私に本当にこの死者の魂を、高い世界に導くことができるのかって分析するんだって。なぜかっていうと、もしできなかったら詐欺になる(笑)。そこまで真剣に考えてる(笑)。
 つまり、仕事として、アーーーーっと、お経をやって、あい、じゃあお布施をいただきます、じゃなくて、もうお布施をいただいてやりますと決めたからには、本当にやらなきゃそれは詐欺になるっていう考え方。で、本当にその人のカルマとか自分との縁とかを分析して、じゃあ受けましょう、って言って、テレビとかでも見たことあるかもしれないけど、死者の耳元で教えを説くわけです。

 さぁ、変な光が見えたと思うけど、そっちに行っちゃいけないよと。おいしいものが見えてきたと思うけど、行ったら餓鬼だぞと(笑)。それよりも、あの、阿弥陀様の赤い光に飛び込めと。
 色々ガイダンスをするわけだ。でもそれは、そういう力を持っている人じゃないとダメで、つまり、あ、こいつの意識はここに来ているなと。よし、よって、今これを言ってあげようと。それができる人じゃないといけないんだね。

 で、ちょっと全然考え方が違うんだけども。でも、それはまぁ、なんていうか、まぁ日本のカルマでもあるよね、そういう形で仏教が根付いたっていうのも。だからその、一人一人のお坊さんを捕まえて、この人はいいとかこの人は悪いとか、そういうのはよくわかんないけどもね。

 あの、なんだっけ、Nさんもさぁ、あれなんだよね、Nさんって大乗仏教とか、系のところに勤めているだけども、あれは職業として割り切っていて、自分は大乗仏教を否定していて原始仏教の修行をしているんだよね。まぁ、それはそれで賛否両論あるかもしれないけども、だから、それで言っても、やっぱり、あの、まぁ、そのNさんの場合は完全に職業として捉えているよね。でも、それとは全く別として、その、真剣に修行しようとしているっていうのがあるみたいだけれども。まぁ色んな人がいるでしょうね。」

U君「いくら真剣にやっていても、それだけでいいってもんでもないんですか」

先生「そうだね、教えが間違っていたら、つまり例えば、そうだな、ホームラン…いっつも野球の例えで申し訳ないが(笑)、ホームランバッターになりたいっていう人がいたとして、変なヘボコーチがやってきてね、よし、フォームを伝授しようとか言って、超ダメなフォーム伝授されたとしたら、その人が一生懸命やればやるほど、ホームランバッターから遠ざかるんです(笑)。つまり教えが間違っていたら、真剣であればあるほど、真理から遠ざかる。

 しかしだよ、しかし私がいつも言っているけども、その、純粋な誠実な、道を求める気持ちがあれば、私は、最後は、到達すると思う。あの、アングリーマーラの例をいつも言っているけども。
 純粋に求めていれば、絶対に、紆余曲折を経ても到達する。っていうか、紆余曲折があること自体が、その人のカルマなんだ。あの、この間、U君にも言ったけど、前生とかで変な宗教とか変な教えに属していて、色んな人をその教えに導いた人っていうのは、今生でも騙されないといけない。今生で、色んな人に、こう、騙される。お前、真理を教えてやろうと、って言ってヒーリングされたりとか(笑)。
 なんかわけのわかんない教えを与えられたりとかするかもしれない。でも、それはその人のカルマだから、乗り越えなきゃいけない。でもそれでもその人が、純粋にね、純粋にってここで言っているのは、本当に純粋かどうかってのは難しいところがあるんですよ。例えば、自分は修行をやっているんだって言いながら、その、修行によって、皆からこう、あがめられていることを目指しているのかもしれない。あるいは、そういうプライドをただ満たしたいとか。修行したら女持てるかなとか。なんか、色んな下心があれば、それは純粋とは言えない。そうじゃなくて、本当に純粋に道を求めているんですよと、いう気持ちがあれば、最後はめぐり会える。

 でも、少なくとも、小さなタイムスパンで言ったら、当然間違った教えをやればやるほど遠ざかる。頑張ればいいっていうもんじゃない。
 あの、甘いもんじゃないよ。頑張ればいいってもんじゃないし、ましてや、頑張んないでいいはずがない(笑)。今、ちょっと、最近の精神世界を皮肉ったわけだけど(笑)。頑張んないでいいんですよ~とかいうのがあるから。頑張らないでいいわけもないし、あの、頑張ってもそれが間違っていたら、ダメなわけだね。だからシビアなわけですよ、当たり前なわけだけど。

 例えば、頑張れば誰でも、あの、野球選手になれるのかと。あるいは、頑張れば誰でも総理大臣になれるのかと。当然そうではない。当然野球選手には野球選手の、総理大臣になりたかったら総理大臣になるための、まぁ、道筋っていうか、正しいやり方があって、例えばそれを教えてくれる師匠がいて、正しい方法論があって、それを一生懸命努力してやった人だけが、それは手にするでしょうと。

 しかし何度も何度も言うけれども、根っこに純粋な、仏陀や神や真理への強い思いがあれば、紆余曲折の後にはたどり着くとは思う。

はい、他に何かありますか?……………じゃ、あと一個だけ何か聞いて終わりにしますかね。」

Eさん「あのー、いつもヨガの後に唱えるマントラ、あの意味を」

先生「あ、あれはね、まあオームのマントラですけども、普通オームっていうんだけども、まぁ、ここでは、ア、ウ、ン、って唱えているけども、あの、あれは色んな唱え方があるんですが、あの、最初の、意味としては、ア、ウ、ン、この三つに分けられて、最初のアっていうのは、アとオの中間くらいの音って言われるんだけども、アーーって感じ、この音っていうのは、全ての始まりの音と言われている。

 だから私が思うに、これはアーメン、これとヒンドゥー教のオーム、これは似ていると思うんだよね。オとアの中間くらいだから、結局、アァァァァァァゥゥゥゥゥゥンーーー…、これと、アァァァァァァァァァメンーー(笑)、似てるよね、アハハハ(笑)、似てると思うし、あとは、あの、サンスクリットのアルファベットって、アーで始まるの? アですよねア。」

Bさん「ア、はい」

先生「英語ももちろんアだし、Aだし、日本語(笑)、50音も最初はアだし、ちょっとこじつけっぽいけども(笑)、あの」

Tさん「チベット語は違いますねぇ」

先生「チベット語は違うか」

Bさん「カ」

Tさん「カ(笑)」

先生「カか(笑)、アハハハ(笑)。カ、って、空のことカって言うよね、空とか、空性とか。カーって言わない?」

Bさん「いや、空がカです。KHの方」

先生「あ、KHの方」

Bさん「カハァーー」

先生「カハァーーー」

Bさん「カハァーー」

先生「カハァーーー…。まぁ、チベット語はちょっと置いとくとして(笑)」

みんな (笑)

Tさん「まとまんなかったですね(笑)」

先生「アハハハ(笑)……アーーー…アーーーっていう、声っていうか音っていうかが、全ての始まりだっていう考えがヨーガではあるんですね。で、逆にンっていうのが、全ての終わりっていう考えがある。ンーね。
 で、その中間として、ウゥーーの音。これが、あの、維持というか、その、なんというか、維持だね。作られたものを維持するという働き。で、この三つ、つまり、創造し、維持され、破壊される。これが、ア、ウ、ン、なんだよ。

 まぁ、あの、……チベット……、まぁ、あのー…、梵字っていろんな書き方があるんだけども、例えばこういう感じとか、チベット的にはどうだっけ…」

Tさん「…こう、こう」

先生「こう…こうですね。こんな感じっすかね。こんな感じとか。
 …まぁこれはあの、チベット語もサンスクリット語も同じだと思うんですけど、これがア行の音で、これがオですよね」

Tさん「ウ!…あ、そっかぁ…」

先生「うん、だから、これはまぁ、これだけ言うと、オームなんだよね、オームとかオーンとか。だからあの、実質的にこれにア、ウ、ンっていう意味を持たせたのは、またその、方便的な技法的な意味だと思うんだけど、実際、アの音とウの音とンの音に、それぞれ意味があって、それはその、儀式とかで、そういう意味ですよっていって、昔から唱え続けてきたんだ。だから、その、インドのヨーガ教室とか行っても、だいたい最初と最後にこの、アァァァァゥゥゥゥン……まぁ、私がねぇ、いくつか行ったところでは、アァァァァァン……っていうところもあったけど、オォォォォーーっていうはっきりとオオオオって言っているところも多いけども(笑)、オオオオォォンっていうところも多いけども。

 今言った、創造と維持と破壊、これが宇宙の真理ですよっていう根本的な教えがある。で、神様で言うと、インドの三大神っていうのがいて、これはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァだね。ブラフマーはちょっとないけど、ヴィシュヌはちょうど、Eエリさんの後ろにある、あれ、ヴィシュヌ神ですね。で、シヴァ神は、この、この方ですね。
 これがまた、ブラフマーが創造、ヴィシュヌが維持、そしてシヴァが破壊を司っているっていう話。

 ブラフマー神ってねぇ、本当は、古来は最も、中心的な神だったんだけど、どんどん人気がなくなってきて、単なる大衆の人気の問題なんだけど、今ではもうヴィシュヌ神とシヴァ神が二大紳といわれているんだけど、本当はブラフマー神もいれて三大神なんだね。

 で、これはブラフマー神が宇宙を創造し、ヴィシュヌ神が維持し、シヴァが破壊すると言われている。で、この三つっていうのは、結局、なんていうかな、三位一体っていうか、あの、それ以外の二つを抜いては、その一つは語れないんだね。つまり、依存しあっている。

 例えばですよ、あの、創造、してないのに、維持とは言わない。あるいは、破壊されないのに維持とは言わない。つまりその、創造と破壊という発想がないと維持とは言わない。あるいは同様に、維持と破壊がないと、その、創造とは言わない。あるいは、創造と維持がないと、破壊とは言わない(笑)。つまり何かがスタートし、滅していくと。あるいはその、スタートされたのは滅するまで維持される段階があると。まぁ、もちろんこの維持はなくてもいいんだけど、創造と破壊でもいいのかもしんないけど。

 これが宇宙の真理、無常ですよと。全ては創造され破壊されますよと。あるいは創造され、あの、維持され、破壊されますよと。これを示しているのが、オーム、ア、ウ、ムの文字だと言われる。で、それは、かなり教理的な意味で、もうちょっと原初的な意味でいうと、単純にその、神への挨拶とか、あるいは、宇宙、あの、真理を、一番端的に表す音として、これが昔から唱えられてきたと言われる。

 だから、全てのマントラの王というか、全てのマントラの根本となるもの、これが、オーム、あるいはオーンとかアウンとか言われるやつなんだね。これをもとに、それ以外の色んなマントラがつなが、くっついて、色んな長い意味を作ったマントラが流れるわけだけども。その一番根本にある音、これがオームですね。

 ヨーガ・スートラでもこのオームってのは凄く重要視されていて、このオームによって神とつながるとかね、あるいは、ということが言われているし、このオームだけひたすら十数時間唱えているとかいう修行もある。

 はい、いいですか。そういうね、基本的な質問でいいですよ(笑)。まったくそれは、いい質問でしたね。

 ちなみに、あの、えー、薀蓄になりますが、よくねぇ、勘違いされるんだけれども、あの、日本の、阿吽、阿吽の呼吸っていうのがある。あれがオームだって言う人がいるんだけども、あれは多分違います。あれはアー、フームなんですね。アー、フームっていうマントラがあって、よくねぇ、チベットではヴァジュラマントラって言ってねぇ、オーム・アー・フームとか言うんだけど、オーム・アー・フームがつくマントラってあるんだね。オーム・アー・フームなんとかなんとか、っていうマントラがよくあるんだけど、あれはまぁ仏陀の体と言葉と心を表すとか、色んな、まぁ、それも意味付けがされているんだけど。あのー、これも、アーというのは始まりの音である。で、フームは終わりの音だという考えがあって、あの、えー、オームじゃないんだけど、意味としては似ているんだけども、アー・フームっていうのがあって、で、その、仁王様とかもアァーー、口開けるのがアァーーの音を出していて、口閉じているのがフームの音だって言われていて、あれはまぁ、オームのさっきのねぇ、もうちょっと簡略化して、始めと終わりを表している。

 あの、沖縄のシーサーとかもそうかもしれないね。ア、一方が口を開けていて、一方が口閉じている。あれは、まぁオームというよりは、アー・フームの、あの、音訳だって言われています。阿吽の呼吸ね。

 はい、他は特にないかな。……はい、では、今日はこの辺で終わりにしましょう。お疲れ様でした。」

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする