M――使途にしてエヴァンジェリスト(5)
M――使徒にしてエヴァンジェリスト 続・ラーマクリシュナの福音
第二章 「目的と手段――神の悟りと無私の行為」(3)
Mはこの信者がサンニャーシとしてマトに出家することを望んでいたが、信者自身は、Mとともに生活することを熱望している。それゆえにMは、マトの生活の高尚でこの上なく幸せな理想を賛美している。
M「出家している法友のうちの誰かと何か話をしたかね?」
信者「はい、先生。ガンガーで蒸気船に乗りながら話をしました。彼は、『さあ、もうこれ以上遅れてはいけない』と言いました。さらにまた彼は、『道徳上の義務についてあまりに考えすぎると、君は信仰生活を送ることができない。家族全員の仕事を充分に整えてから信仰生活を送ることは普通はありえないよ。だからあまり考え過ぎないように。ただ一緒に来たまえ』と言っていました。」
M「その通り、まさにその通りだ。道徳上の義務を過度に思うことは、人が信仰生活を送る助けにならないのだよ。道徳上の義務に終わりはない。計算高く順々に手放していくのでは、放棄は難しいのだよ。必要なのは思い切りだ。」
「最近はかなりの数の善良な人々がマトに加入したね。それに、現在の出家生活はとても美しい。このカリユガでは、生命は食べ物に完全に依存しているから、マトの生活はちょうど寄宿舎に住んでいるようなものだ。スワミジはよくおっしゃった。
『なぜマトを建立すべきなのだろうか? 当然、少年たちがここに来ることで、食べ物を得て、神聖な生活を送れるようにするためだ。』
これが、マトが作られた理由なのだよ。もちろんその生活は寄宿舎のようだが、理想は非常に高い――神の悟りだ。世俗的な理想は一切なく、神の理想だけだ。そしてわずかな愛着をも放棄しなければいけない――ここが違うところだ。
とはいっても、家からの便りは、郵便はがきを書けば得ることができる。あまりに多くの愛着がある場合には、おそらく一度帰宅して、2、3日滞在してから戻ってくる者もいるのかもしれない。みなが利益を得るために、ある人には食べ物を与え、ある人は打つのだ。
人は少しばかり仕事を行なわなければならない。それはどんなことか? 救助活動、図書室の管理、薬の処方、教えること、雑誌の編集、寺院での礼拝、サードゥへの奉仕など――タクルへの奉仕としてなされることは、すべてがタクルのための仕事になるのだよ。それによって得られる利益と比較すれば、これらの仕事の苦労は取るに足らないものだ。
絶えず続く聖なる交わりと、神の近くで生きること――それは並大抵の幸運かね? なんと偉大なアシュラムなのだろう! なんと気高い理想に触れて生活していることだろう! マトの理想はタクル、アヴァターラである。――言い換えれば、実在の智慧、絶対的な至福であり、人間の肉体には区分することができない。今が絶好の機会なのだよ。大気全体が霊性で充満している。
タクルはおっしゃった。
『洪水になると、乾燥した土地でも柱ほどの高さまで水浸しになるのだよ。』
今が絶好の機会だ。なんて素晴らしいことだ! なんと多くの場所にマトができてきているのだろう! 人類の利益のためにこれらすべてをなさっているのは主なのだよ。――ベルル、ダッカ、マドラス、カーシー、マーヤーヴァティなどいろいろな場所、それからアメリカにもだ。これらのマトと接触する人々は、莫大な利益を得るだろう。」
「サードゥとの毎日の交わりは、個人的に不都合な場合でさえ求められなければならない。そしてグルの助言の助けを借りて、自然と戦わなければならないよ。サードゥとの規則正しい接触は、心を平静にする。心が平静になれば、すべては成就されるのだよ。それはちょうど、大変な努力でバイオリンの演奏を学ぶことに似ている。それは、ひとたびそれを身につければ、部屋に一人で座ってでも演奏できるということだ。しかし、努力はそれを身につけるために必要とされる。」
「全世界が舞台であり、そしてすべての男性と女性は単なる役者に過ぎないのだよ。
どんなことをしても――自分自身がね――私心なく行なえばモークシャ(解放)をもたらし、そうでなければ束縛をもたらす。」
「何かを知るために熱心に祈れば、タクルは彼を啓発される。ある者は、主は人間の前にさえ現われて、『これをせよ、あれをせよ』と言ってくださるのだと言う。また、心の中にも彼は現われて、指示をされる。純粋な心には、彼が思考の形をしてお現われになるのだよ。また心はサードゥと毎日規則的に交わり続けることによって浄化される。」
「どのように祈るのか、これもまたタクルが教えてくださった。彼はよくこう祈っておられた。
『母よ、世界を魅惑するあなたのマーヤーで、わたしを惑わさないでください。』
人間にすべてを忘れさせるのが彼女のマーヤーだ。それゆえに、絶え間ない祈りが必要なのだよ。彼女の恩寵がなくては、それらの手中から逃れることは不可能だ。そのようなものが、彼女の避けることのできない神聖なマーヤーなのだよ! 彼女の保護を求めて祈りなさい。
『私にあなたを忘れさせないでください、母よ! 決して忘れさせないでください。』
とね。」
「タクルはよく仰った。
『隣人の家庭生活を見て、まだ年少期だったころにわたしは母によく、「マー、ぼくに一仕事ください」と言った。母はそうしてくれたよ。ねえ、彼女ご自身がすべてをなさるのだよ。一心不乱にそのように言うのだよ。その他には何もしてはならないからね! 未成年の遺言執行者のように、彼女は全責任を負ってくださるよ。』」
信者「ところで、先生! 人は理性と行為を用いて善良であるべきで、常に善を行ない、決して悪業を為してはならないのだと分かっていても、どうしてわれわれの主への信は持続しないのですか? どうして疑いが心からなかなか消えないのですか?」
M「そうなるのが自然なのだよ。人の自然の中に住まうカルマが、彼にそうさせている。人は一人になって、ひそかに、切望して主に祈らなければならない。また、人は聖者たちと交わり続けなければならない。そうしてのみ、すべての障害がなくなるだろう。」
信者「心からの渇仰の祈りが出てこなかったら、そのときはどうするのですか?」
M「最初は、言葉で祈ることを自分自身に強要させなさい。そのように実践していけば、最後には渇仰心を得るよ。」
信者「ところで先生、私たちの世俗への愛着は、どのようにしてバラバラに断ち切られるのですか?」
M「同じ手段によって――つまり聖なる交わりと祈りによってだ。親への愛情もまた、それを通じてバラバラに断ち切られる。親がいない人々の場合には、彼らの愛情を断つのはとても簡単だよ。彼らの道はまっすぐだ。」
まもなくしてムカンダがやって来て、アシュワッタの下に座った。彼は病気であった。Mはすでに2、3度、食事をとってくるように彼に頼んでいた。すでに遅くなっていたとはいえ、彼は食事をとらなかった。彼はMの言葉の甘露を飲むことを熱望していたのだ。ようやくMは穏やかに口を開いた。
「人は友達の言うことを聞かなければならないよ。」
これを聞いて、ムカンダは去っていった。
会話は、あるカルカッタの信者のことになった。
彼は裕福で社会的地位もあるが、家族を一切管理していない。彼は神への憧れを持っている。彼は50歳を越えている。
M「確かにそれは彼の勇敢なところだ。彼は一家の召使いの快適さにさえ目を配るほどに、世俗の義務をすべて行なっているよ。ここにいる私たちだって、彼の世話を受けている。あたかも私たちが彼の親類縁者であるかのように、彼はここにとても多くの贈り物を送ってくれるのだよ。もし長男に家族の責任を任せて銀行の利子で家族を管理すれば、彼はすべての不安から自由になって神を瞑想することができるよ。」
質問「では先生、お礼に何も与えずに、どんな奉仕も受け入れるのが正しいことなのですか?」
M「バクタたちからの奉仕は、受け入れても差し支えない。
『純粋性はバクタの供物だ。』
とタクルはよくおっしゃった。バクタには、神への欲求以外の動機がないのだよ。利己心によって動機づけられた奉仕を受け入れることは、束縛に導く。心もまた不純になるのだ。」
質問「マトにおける祝祭や祭日の間中、数人は断食し続けています。もしそのようにできないとしたら、それは何か悪いことなのですか?」
M「なぜそれが悪いことでなければならないのかね?――そうだとしても、断食を実践するのはよいことだ。祝祭中にマトに行っている間、ポケットの中に食べ物を持ち運ぶといい。タクルのダルシャナの後にいくらか食べても差し支えない。体と心が落ち着いたとき、瞑想できるのだよ。そうしなければ、断食に慣れていないために体調が優れないように感じて、何もすることができなくなるだろう。断食は少しも大したことではない。真に重要なことは、主に憧れて呼び掛けることだ。断食に耐えることができない人々は、少し食事をとってマトに行くほうがよい。断食をしてもしなくても、心が神に没入し続けるのを助けることであれば何でもよいことのだよ。」