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「ヴィヴェーカーナンダ」(35)

 ヴィヴェーカーナンダは講演のためにアメリカ中を回った後、再びニューヨークに戻ると、トゥリヤーナンダに、新しい仕事を依頼しました。それは、信者から寄付された北部カリフォルニアの新しい土地に作る新しい道場の運営でした。その道場は、「シャーンティ・アシュラム」と名づけられました。

 トゥリヤーナンダとの別れに際して、ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「カリフォルアのアシュラムで、ヴェーダーンタの旗を掲げてください。その瞬間から、インドの思い出さえも消し去りなさい。とりあえず、そこで暮らしなさい。そうすれば、母なる神がいろいろ面倒を見てくれるでしょう。」

 さて、このように再びアメリカで忙しく動き回っていたヴィヴェーカーナンダでしたが、すべてがうまくいっていたというわけでもありませんでした。
 ヴィヴェーカーナンダが信頼を置いていたイギリス人の弟子であるスターディ氏は、ヴィヴェーカーナンダが西洋では苦行者の生活を送っておらず、贅沢に堕していると感じて、ヴィヴェーカーナンダのもとを去ってしまいました。
 また、かつてベルル僧院を建立するために多額の援助をしたミュラー嬢は、ヴィヴェーカーナンダが病気にかかっているのを知ると、信を失い、彼のもとを去りました。彼女の中では、神聖さと病気を同時に受け入れることができなかったのです。
 また、ヴィヴェーカーナンダがアメリカを訪れた理由の一つは、インドでの様々な活動のための資金を集めるためでもありましたが、ヴィヴェーカーナンダの講演には無数の人々が集まったにも関わらず、資金援助を申し出る人はごくわずかでした。
 また、アメリカ布教を担当していた兄弟弟子のアべーダーナンダはヴィヴェーカーナンダの幾人かの弟子たちと折り合いが悪く、またさまざまな理由で、何人もの信者たちがヴィヴェーカーナンダのもとを去っていきました。

 こういったことのすべてはヴィヴェーカーナンダの心を悲しませ、また彼はこの世での自分の使命が終わりに近いことを感じ取っていました。ヴィヴェーカーナンダはこの世での様々な仕事への興味を、急速に失っていきました。彼はオーレ・ブル夫人への手紙の中で、次のように書きました。

「私はほんの子供にすぎません。どんな仕事を私はしなければならないのでしょうか。私は自分の力をあなたに譲りました。もうこれ以上、演壇から話をすることはできません。うれしいです。休息したいのです。私は疲れているのではなく、次の段階は超自然的なものとのふれあいとなり、言葉は必要ではなくなるからです。――ラーマクリシュナのように。言葉はあなたのもとへ行き、仲間たちはマーゴット(ニヴェーディター)のもとへ行ってしまいました。」

 また、ある友人への手紙には、次のように書いています。

「私の船は、もう二度と出港することのない静かな港に近づきつつあります。栄光あれ! 御母の上に栄光あれ! 今は望みも野心もありません。御母に栄光あれ! 私はラーマクリシュナのしもべです。私は単なる機械にすぎません。私はもうこれ以外は何一つ知りませんし、また知りたいとも思いません。」

 また、別の友人への手紙には、次のように書きました。

「母なる神の意のままに、一人漂うのが私の人生でした。それを破ろうとした瞬間に、まさにその瞬間に私は傷つきました。母の意思がそうしたのです。
 私は平和で幸福です。以前にも増してはるかに出家修行者として幸福です。私の親類縁者に対する愛は、日ごとに薄らいでいきます。母に対する愛は増していきます。
 ドッキネッショルのバンヤンの木の下で、聖ラーマクリシュナと徹夜をした長い夜の思い出が、もう一度よみがえってきます。
 私は母なる神の子供です。母は仕事をし、遊びます。どのように計画を立てるべきだろうか。どんなことを計画するだろうか。事物ができては消えていきます。母が好むがままに。私が計画を立てているにもかかわらず、それにはお構いなしに。私たちは母の自動操作です。母は操り人形師なのです。」

 また、マリー・ハルボイスター嬢への手紙には、次のように書きました。

「このおもちゃ同然の世界は、ここにはなく、この遊びも続けられません。
 もし私たちが遊ぶ人たちを知ったならば、私たちは目隠しされて遊ばねばなりません。
 私たちの幾人かは悪人の役を受け持ちました。ある人は英雄の役を。――気にしなさんな。すべてが遊びです。
 舞台の上には、悪魔やライオンやトラや、その他いろいろなものがおりますが、皆、口輪をはめられています。飛びかかってはきますが、かみつきはしません。その世界は私たちの魂に触れることはできません。」

 また、最も忠実な信者の一人、マクラウド嬢への手紙には、次のように書きました。

「シヴァ神、おお、シヴァ神よ、私の船を向こう岸に運んでください!
 私はもはやドッキネッショルのバンヤンの木の下で、ラーマクリシュナの素晴らしい言葉をうっとりと聞き入っていた少年にすぎません。これが私の真の本性です。――仕事、活動、善をなすことなどは、すべてつけたしです。今、私は再び彼の声を、私の魂を震え上がらせたあの同じ昔の声を聞きます。
 絆が切れつつあります。愛も滅びつつあり、仕事も無味乾燥になりつつあります。生きる気力が去っていきます。今は、師の呼ぶ声のみが聞こえます。――行きます。愛する神よ、私は行きます。
 ええ、私は行きます。ニルヴァーナは私の前にあります。さざ波一つ立たない、息吹のひと声も聞こえないこの無限の平和の大海を、私はそれを時々感じます。
 私は生まれたことを喜んでいます。大変苦しんだことを喜んでいます。大失敗をしたことも喜んでいます。静寂に入ることを喜んでいます。
 世界は存在します。しかし、美しくも醜くもなく、何らの感情の高ぶりもない感覚の束としてあるのです。おお、その至福よ! すべてのものが善であり、美しい。というのは、私にとっては事物は、それらの相対的な均整をすべて失いつつあるからです。――私の肉体からまず最初に。オーム、その実在者よ。
 素敵なことが、ロンドンやパリにいるあなた方皆のもとにやってきますように。清新な喜び、心と体への清新な恩恵が。」

つづく

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