yoga school kailas

20110420「供養と懺悔の会」より(3)

◎秘密の教え

 で、今日、今言った話とかも、本当は真髄的な話なんです。っていうのは、こういった話っていうのはあまり一般的には理解できない。例えば、自分の師匠がラーマとか神と同一であるとかね。「それちょっと何か違うんじゃないですか?」っていう見方をする人が多いでしょう。でも、ここに実は真髄が隠されてる。
 例えばこの教えの――これは例えばナーローの生涯とか、あるいはミラレーパの生涯とかにはそのエッセンスがすごく隠されてるんだけども――なぜそうなのかっていうことを言った場合、これは一般的な意味とそれから究極の意味と二つある。
 一般的な意味で言うならば、これは何回か言ってますけども、結局そこに生身の姿の師というものが介在することで、弟子のエゴが逃げ道をなくすんですね。これは一つの一般的な意味になります。
 例えばこれは何を言ってるのかっていうと、例えば自分のエゴに抵触するようなことに関してね、エゴっていうのはすごく狡猾なので、自分のエゴを満たすような方向で、その信仰さえも利用しようとするんですね。それにひっかかると、口では神とか言ってるけども、実際にはエゴのいいなりになってしまうっていう場合が多いんだね。で、ここで生身の師匠が登場すると、それが許されない。そこの欺瞞があると、ばしっと叩かれてしまうわけだね。これが一つの一般的な意味ですね。
 究極的な意味としては、これも何かのときに言いましたけども、結局――ちょっとこれは長くなるので簡潔に言いますけどね――結局この世っていうのは、すべて幻であると。で、この幻っていうのは、ただの幻なんじゃなくて、われわれの心やカルマや、あるいはサンスカーラね、行というものが作りだした幻、夢みたいなものであると。で、ここにはまってるわれわれがいるわけだけども、で、ここで本当の意味でですよ、本当の意味で皆さんと縁のある師というものが、この夢物語に登場するとしたならば、その師は実は、ラーマクリシュナの言い方をするならば「サチダーナンダ」――つまり純粋なる真我とかブラフマンとか、あるいは宇宙の本性、バガヴァーンの現われなんだね。
 つまりさっき言った一般的な意味で、師を神と同一と見なさいよっていうのは、まあテクニックみたいなものなんだけど、二番目の意味としては、テクニックじゃなくて本当にそうなんだっていうことです。本当にそうなんだっていうのは、これは皆さん理解できるかどうか分からないけど、でもまあ一応ストレートに言うよ、理解できるかどうかは別にしてね。
 ――じゃあ分かりやすく言いますよ。はい、バガヴァーンがいます。ラーマでもクリシュナでもブッダでもいいです、バガヴァーンがいます。例えばT君がいるとしたら、T君がマーヤーの夢に包まれています。このマーヤーの夢はT君自身の心が作りだした夢物語です。そのマーヤーの外側にいるバガヴァーンが、ラーマやクリシュナが、T君を救うために突入します(笑)。突入してもT君は夢の中にいるから、ストレートには見えません。ストレートには見えないんだが、当然その突入という一つの現象が、何らかの形で夢の中で出てきます。これはちょうど寝てる人をね、ゆすったりとか、水かけたりとか、あるいは耳元で何かささやいたりしたら、当然それが夢に反映されるよね。例えば寝てる人を揺すったら、地震の夢見るかもしれないよね。あるいは何かを耳元でささやいたら、夢の中でそういう声を聞いたっていう夢を見るかもしれない。同じように、聖なるバガヴァーンがわれわれの人生っていうかな、夢のこの幻の世界に介入してきたときには、われわれもそれは当然――いきなり歩いてたらバガヴァーンがパッとこういうふうには出ないんだね。じゃなくて、ちゃんとわれわれの世界のつじつまに合うように現われる。それが皆さんの師なんです。
 この「皆さんの師なんです」っていうのも、一つすごく重要な意味があって、どういうことかっていうと、「じゃあ先生はバガヴァーンなんですか?」っていった場合ね、わたしを師と考える人にとってはそうなんです。じゃあそうじゃない人はどうなんだろう。例えばわたしを師と考えてなくて、他の人を師と考えてる人がいたとするよ。その人にとっては、その人の師がバガヴァーンなんです。「あ、じゃあ、考え方の問題ですか?」――違うんです。本当にそうなんです(笑)。これが秘密の教えなんだね(笑)。
 これはだから固い頭では理解できない。つまりわれわれが見ている視点自体が、今非常に間違った視点でこの世界っていうのは構築されているわけだけども、間違ってない視点からやってきてるものがあるんだね。この間違ってない視点からやってきてるものと、間違った視点っていうのは、合わないんだね。つじつまが合わないようにできてる。だからこういう話っていうのは、ちょっとこう「え? どういうことなんだろう?」ってなっちゃうんだけど、それは皆さんの深い心で感じ取ったらいいね。
 だから皆さんも本当は二十四時間、皆さんの好きな神、あるいはブッダ、あるいは聖なる存在を常に心で考えると。で、それが皆さんの師と同一であるっていう感じで考えたらいいね。この「皆さんの師と同一である」っていうのは、師の方にウエイトを置くか、あるいは神の方にウエイトを置くかは、まあそのときそのときで違ってもかまわない。どういうことかっていうと、常に「神よ! ラーマよ! クリシュナよ!」って考えて、「これはわたしの師と同一である」って考えてもいいし、じゃなくて自分の師匠のことをいっつも考えてて、その師匠がラーマやクリシュナと同一なんだって考えてもいい。あるいはその中間ぐらいでもいいよ。

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