yoga school kailas

20110420「供養と懺悔の会」より(2)

◎バクティの理想

 そしてもう一つが、この最後の部分。これはだからさっき言ったこととも関わるわけだけど、ラーマがね、繰り返しハヌマーンに、「何もいらないと言われても、お前はたくさん貢献したから、ぜひ何かをプレゼントしたい」と。「何か言わなきゃ駄目だ」と言ったことに対してハヌマーンが、「本当にわたしは何もいらないのです」と。「ただわたしは、あなたにお仕えする場だけが欲しい」と言ったんだね。
 このラーマーヤナっていうのは、シーター救出っていう一大劇のために、いろんな神々の生まれ変わりである勇者たちが集まったわけだけども、で、それが終わったので猿とか熊とかは解散するんだけど、普通はだからハヌマーンも解散するはずだったんだけど、ハヌマーンのその強烈な願いを受け入れてね、ハヌマーンはその後も帰らずに、一生ね、ラーマのもとでラーマに仕えて過ごしたっていわれてます。
 ここがさっき言った、誠実に自分の使命を行なうと。あるいは仕えさせていただくことこそが喜びなんだっていうハヌマーンの愛の形なんだね。
 つまり単純に「ああ、ラーマ! ああ、ラーマ! ああ、わたしはわけわかんない!」っていうそういう愛ではなくて、「あなたのために仕えさせてください」と。「わたしはわたしのための人生は一切要りません」と。「わたしの体っていうのは、ただあなたのためだけにあるんです」と。そういう思いを神に向けるんだね。
 だから一番目に言った、自分の心は神でいっぱいであると。で、自分の人生、あるいは体っていうのは、あなたのためにあると。この思い、あるいは行動を皆さんがものにできたら、素晴らしくスピーディーに修行が進むし、皆さんも幸せになるでしょう。
 これは一つの理想として、皆さんの実践項目としたらいいね。もちろんこういう話っていうのは、ここにいるほとんどの人はバクティの心があるだろうからしてるわけだけど、こういったバクティの思いがあまり響かない人は、別に考えなくてもいいです。道は本当にいろいろあります。今話してるのは、まさにバクティの人のための道だからね。
 で、もう一つ言うと、これはまたちょっと密教的な話になるわけだけども、これもいつも言ってるけども、実質的なアドヴァイスをするならばですよ、実質的なアドヴァイスをするならば、いつも言うように、自分の師匠ね。つまり生きた師匠、生身の、いわゆるグルといわれる師匠をまず目の前に置いて、それを今言った、ラーマでもいい、クリシュナでもいい、その神と同一視するんだね。同一視して、それに今言ったような愛の心、あるいは奉仕の心を捧げると。これが最も実質的な皆さんへのアドヴァイスです。
 ここにいる人たちの中である程度の人は、わたしのことを師匠だと考えてる人がいるだろうから、その人にとってはわたしなわけだけど、もちろんそうじゃない人、別の人を師と考えてる人はもちろんその師のこと、あるいはまだ自分にとって師というのはまだ分からないなっていう人は、まだ考えなくてもいいかもしれないけどね。これは実質的なアドヴァイスです。
 ただ、実質的なアドヴァイスだけど、これもまあそうですね、ピンとこない人は考えなくていい。ただピンとくる人はそれを実践してください。
 わたしはもともとカイラスを始めたころ、わたしが長年っていうかな、中学生ぐらいから積み上げてきた修行や、あるいはいろんな瞑想経験やあるいは教えの理解等を、どのような形で出そうかっていうのは、ちょっと試行錯誤したところがあった。試行錯誤っていうのはつまり、自分が最高と思える教えをバーンっていきなり出しても、多分誰も来ないだろうという思いがあったんだね。それはネットとかもそうですよ。初期のころわたしがカイラスのホームページに書いてたこととか、ミクシーに書いてたこととかも、かなり気を使ってオブラートに包み、誰にでも分かるような感じで出したんだけど、それでも多くの人から「あんな高度なこと出していいんですか」ってよく言われたんだけど(笑)。それでもかなり抑えてたわけだね。でもだんだんカイラスも修行が進んだっていうかな、智慧が高い人が集まってきて、バガヴァッド・ギーターを始め、あるいはもちろん入菩提行論もそうだけど、だんだん多くの真髄的な教えが説かれるようになってきたんだね。

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