2011/5/4「供養と懺悔の会」より(2)
◎神とのお話し
はい、ちょっと難しい話だったかもしれないので、もうちょっと全く別の簡単な話になりますが、これは具体的な実際的なアドヴァイスとしてね――みなさんは日々、神に祈りを捧げるといいですね。もちろん懺悔はするとして、懺悔以外にも日々何度もね、神を思い出して、心から祈りを捧げると。
もちろんね、いつも言うように、その神と自分の師匠ね、師と神をオーバーラップさせて祈ると、本当はそれが一番いいんだけど。それができない人は、自分のイメージする神でもかまわない――をイメージして、祈るっていうよりもお話しするんだね。
何をお話しするかっていうと、まあそれは自由です。それは自由なんだけど、例えばですけどね、例えば「神よ」と。「わたしは正しい道を歩いていますか?」と。「わたしは間違っていないでしょうか?」と。「わたしが正しい道を歩けるように、あるいはあなたの御意思を遂行できるように、お導きください」と。あるいは、「そのための――もしわたしがそれに気づいていないとしたら――気づくための試練というかな、道をお与えください」と。こういった真摯な祈りですね。
もちろん今言ったようなのじゃなくてもいいよ。何でもかまわない。対話をしてください。もちろん現世的な対話じゃ駄目ですけどね。でも多分ね、ここにいる人たちは現世的な対話はしないでしょう。現世的な対話はしないっていうのは、一般的な人は多分、神に祈るって言った場合、「ああ、神様! 今年うちの息子が受験なんです」とかね(笑)、「今月ちょっと厳しいんで……」みたいな(笑)、こういう祈りもあるかもしれないけど、みなさんは多分それはないと思うんだね。
っていうのはその、これはさっき言った話とも関係あるんだけど、本当にわれわれが、みなさんみたいに教えを学んでいる人の場合特にね、神というものに心を向けると、さっき言った中心点に還るような感じになって、どうでもいいことは吹っ飛びます。
これは何回かここで言ってるけども、有名なヴィヴェーカーナンダの話でそういうのがありますよね。聴いたことない人もいると思うんで、かいつまんでだけ簡単に言うけどね、ヴィヴェーカーナンダっていうのは、さっき歌でも歌いましたが、ラーマクリシュナの一番弟子だったんですね。で、一番弟子なんだけど、ある時期まではラーマクリシュナがカーリー女神に対する信仰をしてたのを、ちょっと受け入れてなかったんですね。「いや、あれは偶像崇拝だ」とか言ってた時期があったんだけど。ある時期ヴィヴェーカーナンダのお父さんが亡くなってしまって、ヴィヴェーカーナンダはもともとはお金持ちだったんだけども、財政が立ちゆかなくなって大変貧乏になってしまったんだね。で、ヴィヴェーカーナンダが働かなきゃいけなくなっちゃったんだけど、なぜか全く職が見つからないと。どんどん貧乏になっていって、その日の食事も事欠くような状態になってきたと。で、ヴィヴェーカーナンダは師のラーマクリシュナにお願いしに来たんですね。「どうかあなたのカーリーマー、カーリー女神にお願いしてください」と。「本当にこのままでは、わたしの家族はやっていけなくなる」と。「だから、あなたのカーリーマーは完璧だとあなたはいつもおっしゃってますから、お願いしてください」と。でもラーマクリシュナはそれを受け付けずに、「何言ってるんだ」と。「わたしにはもうそんなお願いはできないんだよ」と。「お願いしたいならお前自身で行ってきなさい」って言ったんだね。
そこでヴィヴェーカーナンダが、もともとは信じてなかったんだけど、そのカーリー女神の――つまり像ですね――像の前に行って、祈り始めたんだね。そうしたら祝福が降り、それまで「こんなのはただの石じゃないか」と、「ただの像じゃないか」と、「これが神っていうわけはない」っていうクールな目で見ていたヴィヴェーカーナンダだったんだけど、祝福によって、「本当にこれ、カーリーだ!」って分かったんです。「あ! カーリーだ!」と(笑)。「そういうことか!」と。「まさにいらっしゃった」っていうことに気づいたんだね。
で、そこでヴィヴェーカーナンダは自分の財政のことをお願いしようとしたんだけど、そのあまりの女神の威光、女神の素晴らしさ、崇高さに心打たれて、恥ずかしくなってしまったんだね。恥ずかしくっていうのは、「このような素晴らしい女神を前にして、財政状態をお願いするなんて、おれはアホか」と。ね。ちょっと表現は忘れたけども、例えば王様の前に出てね、「何でも望みのものを取りなさい」って言われて、藁の束をお願いするようなもんだと。ね。国でも何でもいいぞって言われて、「藁の束をください」って言うようなもんで、大いなる女神の前において財政状態をお願いするなんていうのは、それはアホであると。
そこでヴィヴェーカーナンダは、「どうかあなたへの愛と、それから叡智――智慧と愛のみをお授けください。それ以外はいりません」ってお祈りしたんだね。で、そこでふらふらになりながら、神に酔いながらヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナのもとに帰ってくると、ラーマクリシュナはにこにこしてね、「どうだい? お前、お金のことをお願いしたかい?」って聞いたんだね。そしたらヴィヴェーカーナンダは、「あ! 忘れていました!」と。「あの神の前に行ったらそんなことは忘れてしまいました」と。で、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに――ちょっとこれ、言葉が面白いんだけど(笑)――「お馬鹿さんだねえ!」って(笑)、「お馬鹿さんだねえ、お前は」と。「ちゃんともう一回行ってお願いしてきなさい」と。
そこでヴィヴェーカーナンダは「分かりました」って言って、また神の前に行って「女神よ!」ってやってたら、またパーッてなって、また恥ずかしくなったんだね。「こんな神の前でそんなことお願いできない!」ってなって、「智慧と愛を!」ってお願いしたんだね。それが数回繰り返された。「また駄目なのか」と。「また行ってきなさい」と。で、数回繰り返されたときにやっと気づいたわけだね、ヴィヴェーカーナンダはね。つまり、一つはこれがラーマクリシュナのしかけだったっていうことと、それから自分がね、いかに馬鹿なことで悩んでいたのか。自分が生まれた意味、あるいは存在している意味、あるいは修行している意味が何だったのか――っていうことを、はっきりと確信したわけだね。
そこで最後はもうはっきりとした足取りでラーマクリシュナのもとに帰ったと。ラーマクリシュナはまた「どうだい? お金のことはお願いしたかい?」と。そうしたらヴィヴェーカーナンダは、「いや、もういいんです」と。「わたしはもう分かりました」と言って、カーリーマーの悟りをラーマクリシュナに話すわけだね。
ラーマクリシュナもこの後かわいいんだけど、ラーマクリシュナはあまりにも頭が固すぎるヴィヴェーカーナンダに、このカーリーマーの真実を教えようとしてたんだけど、なかなかそれはうまく行かなかった。でもこの日そのような祝福があって、ヴィヴェーカーナンダがやっとラーマクリシュナがいうところの女神カーリーの真実を悟ったわけだね。その次の日ラーマクリシュナは、とてもかわいいんですが、ラーマクリシュナの部屋にはいつもいろんなお客さんが来るんだけど、弟子たちが来るんだけど、誰か来るたびにみんなにね、「お前、聞いてくれよ」と。「ヴィヴェーカーナンダが――そのときはナレーンドラっていったんですが――ナレーンドラがカーリーマーを受け入れたんだぞ」と。「お前、どう思う?」と。ね。何回も聞かれたって言うんだね(笑)。何回も何回も「おい、どう思う、お前?」と(笑)。相当うれしかったんだね。
まあ、それはいいんだけど(笑)、ちょっと話を戻すけども、われわれが本当に崇高なる完全なる神というものを思い描いて、会話をすると。それは決して現世的なものにはなりません。じゃなくて、みなさんの心の奥の奥が本当に求めてる、あるいは望んでる会話になるはずなんだね。で、それによってみなさんに大いなる祝福が必ずあります。
いつも言うように、神というのは、ね、太陽の光のように、常にわれわれに恩恵を与えてる。あるいは、常にわれわれに祝福の風を送っている。しかしわれわれは、自分で自分の頭の上に傘を差していると。あるいは、その風を受け止めるための帆をあげていないと。よって、傘を外せと。あるいは帆をあげろと。それがさっき言った「中心点に還れ」っていったこととも関係するんだけども、そのような神との対話、神への――つまり「神との対話」とかそういう本もあるけど、わたしが今言ってるのは分かると思うけど、そういうオカルティックな話じゃないですよ。オカルティックな、霊的な世界にぐっと突っ込んでとか、そんなことを言ってるんじゃなくて(笑)、みなさんの心を、別のいい方をすると、日に何度も純粋化しろっていうことです。純粋化すれば――純粋化っていうのもちょっとあってるか分からないけど、みなさんの中で純粋化する時間を日々何度も作ることによって、みなさんの生き方や、あるいは人生や、あるいは道っていうのは自ずと見えてきます。「これしかない」と。それに何度も何度も立ち還らなきゃいけないんだね。
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